こんにちは。


私はスピリチュアルを卒業して、その後もたまにハマってた頃を思い出すことがままあります。


その度に嫌な記憶も含めて思い出すので、それはそれとしてノートに書いて排泄を繰り返しているのですが、だんだんと書いてるうちに少し冷静にもなってきました。すると別の疑問や別の感情が出てくることもありました。


そもそもどうしてハマってたんだろう?と。


これを最初に思った時は正直、別個にノートにまとめたいとか、書いて整理したい気持ちにはなれず、とにかくめんどくさいし触れたくなかった。

何だか知りたくもないことを知ってしまいそうな気がして怖かったんでしょうね。


けど、ノートに書いてるうちにこの疑問が大きくなっていくのを感じて、ようやっと自然と整理したくなってきたので、中途半端でもまとめてみることにしました。(カッコよくまとめたわけでもなく、これはあくまで途中経過での話ですよー)



あ、ざっとハマった経緯というか、一応私の背景を。


私は20歳くらいにハマりました。

それまでははっきり言って、スピリチュアルというものも、精神世界というものもほぼ知らないに等しい。それどころか、自分を内省するとか、人生に対して疑問を抱くとかっていうこともあまりしたことがなかったのです。(覚えてる記憶によれば)


なので、大人になったら社会に出て当たり前のように働くだろうと思っていたし、希死念慮とか何かに絶望した決定的な出来事があったわけでもなかったのです。だから、スピリチュアルにハマる要素というのか、私のどこに引っかかったのか分からないまま気づいたら沼っていました。

強いて言えば、バシャールの本にあった「ワクワク」を私も体験したいという気持ちが強かったからでしょうか。


けど、今思うと、人生に対して明確に疑問はなかったですが、何というのか…これはこの疑問を掘り下げた後に思い出したことですが、私は何となく自分のことを、ベルトコンベアに乗せられて1つずつパーツをくっつけられて作られた機械みたいだなぁと思っていました。当時は言語化できなかったですが、こんな風に私は人間のはずなのにどこか無機質な感覚がいつもあったのを覚えています。それは世間的に言えば、心に穴が空いているという感覚だったのかもしれません。


この穴にカポッとスピリチュアルが入り込んで、埋めてくれたんじゃないかと今では思うのです。


取っ掛かりは、バシャールとか『神との対話』などの話からでしたが、具体的には日常的に内観をするような類のスピリチュアルをやっていました。

なので、巷で聞くようなた、女神が〜とか、パワースポット云々とか感謝ワークとか、そういう知識も触れてはいたものの、基本的には四六時中自分を観察することをしていました。自分の行動パターンに気づいたり、いつも流れてくる想念を観察しつつも、飲み込まれないように流したり…。

何というか地味な感じのスピリチュアルなのです。



…と、前置きが長くなりましたが、本題に戻りましょう。


結論から言ってしまえば、私が容易にスピにハマり込んでしまう理由はいくつかありました。


①(当時は全然気づいてなかったけど)そもそもこの現実世界で生きることに何の希望も見出せず、霊的成長のためという大義名分のもとに「人間」をしていた。


②親から聞いていた人生観のまま生きてきたので、「ワクワク」とか、自分の好きに従って生きるという生き方が私には目新しく映った。


③精神世界で言われてるこの世の「真理」や知識を活用することで、どんなに不幸な状況、嫌な相手に対しても、「これは◯◯なんだ!」と意味付けすることができ、本当は苦しいのにそれを隠すために利用してきた。


大きくこの3つがありました。



もう少し具体的に見ていきましょう。


①は私がそもそもスピリチュアルをやる前から心の穴がぽっかり空いてるような感覚を感じてたことと関係しています。※

(※ここは複雑性トラウマと関連していると思うのですが、具体的に説明できないので、詳しくはプロの方の説明などを読んでみてください。)

すごいざっくりですが、精神が未熟な母親に育てられたことで、子供の頃から沢山傷ついてきたのですが、そういう子供って事実を受け止めるのがしんどくならないように事実を歪ませて解釈しようとする癖がつくらしいのです。

例えば、お母さんに無視されたのが事実だったとしても、お母さんはきっと◯◯で忙しかったんだとか、何かしらそれらしい理由をつけることで傷つかないようにしているんだそう。


これを大人まで引きずるのがどうやらスピリチュアルにハマる人あるあるのようで、無意識的にですが、この世界に生きていくことに意味を見出せない時や、辛い現実から逃避しようとして、スピリチュアルの世界観を現実に当てはめてしまうようです。

現実を最もらしい物語に置き換えてしまうみたいな感じでしょうか。


世の中に明確な「答え」なんてないし、それこそこの世界の仕組みなんて確かめようもないはずなのに、なぜか「真理」を絶対的なものとして据えてしまう。先人たちが言ってるから完全なる間違えじゃないのかもしれないけど、盲信しすぎたり、それを自分の基盤としてしまうと途端に、真理と自分を比べて自己否定したり、卑下してしまうことはよくありました。


①は、人生に絶対的な「答え」、「正しさ」が欲しくてやってたのかもしれません。それだけ、人間として先行きの見えない現実を渡り歩くには必要だった。私にとってスピリチュアルで教わった知識は、いわば1冊持ってれば安心安全の旅のガイドブックみたいなものでした。



②も私にとっては大きいことでした。


なんせ、ずっと親から「仕事は辛くて当然」みたいなことを吹き込まれてきたのと、楽しそうに仕事してる人なんて見たことがない世界線で生きてきましたから。

だから小学生の頃から大人になったら漠然とでしたが、オフィスで四六時中働いて、休みの日が少しあって、それを60過ぎまで当然の如く続けるもんなんだと思っていました。心底退屈だなぁと。


だけど、スピリチュアルに触れ始めた時に、バシャールや、実際に自分の好きなことを仕事にしている人の話を聞いたりして、そんな世界線があるのかと当時は内心でかなりたまげていました。


「だったら私も辛いよりも、ワクワクしたい!」


すごいフワッとしてましたが、これまでの反動なのか就活にまで悪影響を与えたほど、私はこの話に夢を抱いてしまって普通の大学生活を送るのすらバカらしく思うようになっていきました。

思えば、これが現実から逃げる最初の口実になっていたのかもしれません。


健全だと思春期くらいまでに親の人生観から抜け出すフェーズがあるらしいのですが、それもなかったんだと思います。というか、本当に親に言われ通り、何も世の中に疑問を持たずに生きてきてしまったんですよね。


だからスピリチュアルとの出会いはある意味、親の世界観からの脱却には一役買ったわけですが、あまりにもこれまで親の言うことを盲信しすぎていたこともあって、一気に反転してしまったわけです。

信じるか、やめるかの100か0かの状態みたくなってしまい、当時は就活は全くしないし、親の生き方には全否定みたいな感情しか沸いてこなかったことを思い出します。



③は①と似ているところがありますね。


本当は辛い現実だったり、嫌いな人なはずなのに、それを素直に感じずに、何か意味を見出すことでその状況を受け入れようとしていました。


ただ、③は自分のネガティブな感情とか、醜さ、汚さ、性格の悪さ等々を見ないように利用していた側面が大きかったんじゃないのかな、と。


スピリチュアルって、最終的には全てに感謝するとか、赦すためにやっているところがあって、そうなるとネガティブな感情ってフォーカスされるどころか、早く抜けたくて仕方ないのに、どうしても出てくるような鬱陶しい感情みたいな位置付けになってたりするんですよね。

「そんな感情抱いてるうちは未熟だ!」とか、「飲まれてないでさっさと流しなさい」とか。


けど、そんなこと出来ればとっくにやってるわけで。


…当時もそんなことを思いながらやっていましたが、実は1番向き合う必要があるのってここだったんじゃないの?って、最近は思っています。


スピリチュアルをもって現実を歪めて解釈しようとしてしまう自分からだったんじゃないかと。


理不尽な現実なら理不尽で一旦ちゃんと落ち込んだり、悔しがったり、怒ったり、悲しんだりすればいいのに感情に飲まれるのがあたかも物凄く悪いことみたいな扱いって、なんか違うよなと。


まあ、それを他人にそのままぶつけるとか、暴力的に解決するのはもっての外ですが、だけど無かったことにして、一足飛びで悟りみたいな境地だけを良しとしていたら、純粋にこれほどしんどいことはないよなって思います。


ちょっと脱線しますが、


当時から、感情を感じ切るって何?みたいな疑問だけはずっとあって、最近まで全く分かっていませんでした。


一応、イメージするとか教わったこともあるのですが、その感覚がイマイチ掴めなかったんです。とはいえ、その過程は重要視されていなかったので、本当に個人的な感覚に委ねてて、具体的な体験の話を聞いてみたいのにどこを探してもなかったんですよね。


今はその辺りのことって、色んな人たちがノートに書く方法をはじめ、様々なやり方を紹介していて、具体的に感じ切るってどういうものなのか、やっと自分も体験しながら身体感覚で分かろうとしてる最中なのです。



というわけで長くなりましたが、以上3つの理由がありました。


ここまで色々書いてきていますが、それこそ卒業して最初は、こんな10年以上も大学時代に始めたスピリチュアルの影響を受けて過ごしてきた自分に絶望感しかありませんでした。自分も他人も散々恨みました。


しかも、その体験が無駄だったなんて受け入れてしまったら、それ以外何もしてこなかった自分、実績も経験も何も積み上がっていない人生を過ごしてしまった自分を認めるようなもので受け入れ難かったし、本当に怖かった。


でも、この感情を感じ切ると不思議なもので、その時の自分に必要な情報がちゃんと耳に入ってきて、響くようになるんだなと思いました。(これまでだって散々同じような情報は流れてたはずなのに…)

だから心理学とか複雑性トラウマとかの情報を素直に聞けるようになれたんだと思います。


まだ完全に過去にはなっていないですが、ブログに書いてみようと思える程度には、過去を冷静に見られるようになってきているのかな、と。



そして何より、当時の自分に対して…過去を過去のものとして決着をつけるために、誰にも見せないノートとは別にブログに書いている気がしています。