ずっと「ワクワク」を探してきた。
10年くらいずっと。
でも最近それに疲れてきてしまっている自分もいる。
私はずっとワクワクできることやそれに関連した仕事をすることで、幸せの連鎖が起きて人生が豊かになるものだと思ってきた。(シンクロ的な)
だから絶対「これだ‼︎」と思える出会いを果たして、そのワクワクに邁進する日々を送りたいんじゃ!という勢いでやってきた。
しかし「これかな?」と思っても続かなかったり、やっていても途中で、実は本当にワクワクしてたんじゃなくて、それをやる自分に対して期待しているワクワク感だったり、その熱が冷めるとサーっと引いていって「これ違うかも!」と思って何もかもすぐ辞めていた。これじゃあ、継続もしていないからそのものに向き合えているわけじゃないし、本当に好きかどうかなんて分からない。ジャッジするタイミングも早い。
とはいえ、幸い続いたものに関しては何が良かったのかと言えば、それを介して出会った仲間だったり、その空間に楽しみを見出していたり。
やっている事自体はある意味ではそれほど重要ではなかったと思うものも少なくない。
ふとそんなことに最近気づいた。
ワクワクを見つけられたらどれだけ幸せなことだろう。。。なんて、エゴ的には思う部分もあり、まだ諦めきれない(納得できない)部分もあったが、最近は何よりもそんな自分に疲れてきていると感じることが増えた。
日々そういった葛藤もある。
そもそも私は何に喜び、何に楽しみ、何に心躍るのか…
それすらもずっと知らないでいた。けど、知らないはずはなくて、ただ単に忘れているだけかもしれない。
日々に埋没する中で、自分の意識状態を気にかけるわけでもなく、思考優先で勘や感覚や自分の気持ちなんて二の次で、そんな状態なのにワクワクしたいですって言って探しに行ってしまった。
何がなんでも私のワクワクを探し出したくて。
でも「何がしたいのか分からない」というのが常に本音だった。気づいていてもずっと認めたくなくて、そもそも「ワクワク」探す以前の問題なんだけど、それはいつだって脇に置いている状態だった。
だからずっと外からの声や何かの影響を受けて、「じゃあやってみるか…」という感じでやっていた。
「じゃあ」の時点で違うのだけれど、何よりも外向きに1つでも多く色んなことをやることに必死になっていた。
最近までそういう状態になっていたことにすら気づかなかった。
とりあえず気づいたら疲れていたというわけで…
これからは「ワクワク」なんて大それたことじゃなくて、日々の小さな喜びや小さな楽しみに1つずつ気づいていこうと思う。
散歩コースの道路脇につくしが1本生えていた。
「春だねぇ〜」と思った。
それからほぼ毎日通っているうちに、少しずつ成長して伸びていく様子を追うことができた。
「だいぶ伸びたね。横にも仲間が増えたんだね。」なんて、気づいたらつくしに話しかけていた。
いつのまにかそのつくしを見ることが小さな楽しみになっていたようだ。
つくしが生えていようがいまいが、私自身の何の得にもならないし、それこそ食べれられるわけでもないけど、それを見て素直に喜べることが嬉しかった。喜びが広がっていくようなじんわりとした喜びだった。
こういう喜びの瞬間を1つずつ増やしていこう。