6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

 

7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 

8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

 

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私たちの間違った謙遜はキリストに自分の罪を拭ってもらうことを遠慮させます。

 

もちろん道義的には正しくもあります。

 

本来、自分の罪は自分で始末すべきでしょう。

 

しかし、残念なことに人は自分の罪の大きさに気づいてもいないので、

 

自分でどうにか支払えるような罪ではないことを知っていません。

 

罪という時に、ほとんどの人は道徳的な罪を考えるので、

 

この世の法を犯さず、道徳的にもあまり破綻したことをしていなければ、

 

自分をそもそもあまり罪びととは考えないでしょうし、考えたとしても、

 

自分は他人よりマシと思うぐらいでしょう。

 

しかし、もし、この世に法律がなく、なにか法を犯してもまったく咎めも罰則もなく、なんのデメリットもない世界があったとしたなら、

 

一体何人の人が、その生涯で一度も盗まず、また一度もレイプせず、また殺人をしない人がいるでしょう?

 

それらをしてもまったくこの世的になんのデメリットもないなら。

 

もしデメリットがないなら、仕事をせずに銀行襲ってお金をゲットし、

 

好きな異性の気持ちは無視して性的な関係をし、憎たらしい人間の存在を消すために、手を血で染めることが多くの人はあるのではないでしょうか?

 

そんなことをしてもニュースになるでもなく、仕事に影響なく、友人関係にも影響がないとしたら。

 

それが本来の私たちです。

 

愛があれば、法がなくとも、それらをすることはないですが、

 

愛がないならば、罰則やデメリットがない限り法が守られることはありません。

 

わたしたちがそれほどの罪びとなので、キリストの犠牲が必要だし、

 

実はわたしたちは他人を裁けるようなものはなにもないと分かります。

 

同じ罪が実は隠れてるだけだからです。

 

だから私たちにはキリストが必要です。

 

キリストに罪を拭ってもらう必要があります。

 

私たちの弱さや汚さが受け止められ、それでも愛されていることを通して、

 

そこに関係ができます。

 

キリストに罪を担っていただくことによって、私たちは神と愛の関係ができます。

 

私たちがそれを拒む時に、神の愛をやんわりと拒否しているのです。

 

私たちは表面的な罪を告白したり、キリストに担ってもらうことが多いですが、

 

私たちの罪はもっと根深く、もっと重いのが実は霊的現実です。

 

それをキリストは喜んで背負って、それでも喜んで愛してくださっています。

 

そのキリストの愛の大海に飛び込み、全部を覆っていただくことが洗礼とも言えます。

 

その愛に飛び込むときに、今まで古い自分は死に、御霊によって新しくキリストに似たものに生まれ変わります。

 

すべての罪の告白し、

 

キリストの愛の池ではなく、大海に飛び込みましょう。