第二コリント 5:12-15 自我が死ぬ方法
12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。##############信仰生活、礼拝、福音を伝えることなど信者に付随することはさまざまありますが、その動機が大事です。動機が自分のなにかではなく、主であるということが大事です。最初は自分にとってメリットがあってやっていることがあったとしても、私たちが主と交わり、主のすばらしさを知るにつれ、自分のなにかのためではなく、ただ主の愛に応えたい、主があがめられてほしいという思いに変わっていくはずで、それが動機として一番大事です。それが動機であれば、結局は自分のことを宣べ伝えていたり、自分の栄光のため、ということにはならないはずです。私たちの働きも生活もうわべだけのことにならないようにしましょう。私たちを激しく優しく深く取り囲んでくださるキリストの愛を知らないでは、信者として信仰生活を送るメリットは、なにかサークルやコミュニティにつながる程度の楽しさ以上のものにはなりえません。まして主のために犠牲を払いたいなどとは思えません。しかし、事実キリストの愛は私たちを取り囲んでいます。それは実際に私たちの命の代価として、神である自分の命を捨てるほどの強い愛です。その愛に心焼かれる時に、冷静で客観的でありながら、人には狂ってる、常識はずれだ、と思われるようなこともキリストのためならいとわずにすることができるようになります。それは決して人間の力などではなく、御霊による力です。その御霊の力の中にあるキリストの愛にどっぷり浸る時に、私たちの自我は死んでいきます。肉の力や精神力でがんばって自分に死ぬことはできません。そうではなく、キリストの愛の命にどっぷり浸る時に自我やプライドがその中で窒息死、キリストが私たちの命として生き始めます。キリストが生き始めたら、常識ももう通じません。