1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

 

2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

 

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わたしたちはもはや律法の下にはいない自由人ですが、

 

今はキリストの律法の下におり、キリストの律法を全うするためにいます。

 

キリストの律法はキリストがすでに全うされましたが、

 

わたしたちはそれにならうものとされたからです。

 

では、キリストの律法とはなんでしょうか?

 

"12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15章)"

 

キリストが愛したようにわたしたちが互いに愛し合うこと、

 

これがキリストの律法です。

 

ともすると教会は、愛し合うことはそっちのけで教会活動が私たちの人生のメイン活動のようになってしまっていることがあるかもしれません。

 

しかし、どれほど教会活動をし、あるいは聖書を読み、あるいはボランティア活動をしても、

 

このキリスト律法である、キリストが愛したように互いに愛し合うことができていない時に、

 

それは本来の教会の姿でもないし、主が望んでいる信仰者像とはかけ離れている、ということです。

 

愛し合うこともそうですが、「キリストがわたしたちを愛したように」

 

という枕詞がさらに難度を高めています。

 

そうです、わたしたちの道徳の範囲とか、常識の範囲の愛とはかけ離れた愛なので、

 

わたしたちの肉では絶対に行えません。

 

しかし、わたしたちのうちにおられる御霊にはあらゆることが可能です。

 

御霊によって生きているなら、わたしたちにもキリストが愛したように、

 

他のだれかを愛することが可能なのです。

 

いや、それが御霊であれば、100%以外の愛をするわけがありませんし、することができないはずです。

 

わたしたちがそのように愛するときに、

 

無駄な議論や言い合いはなくなります。

 

わたしたちはなにが正しいか、ということに固執しすぎる時に、

 

誘惑に負けて相手を裁いたり、見下したり、自分が何者かにでもなったように勘違いをする時があります。

 

しかし、御霊にいれば、そういう誘惑からも守られます。

 

正しいことを言ったり、誰かを正すことが悪い、ということではなく、

 

むしろいいことですが、わたしたち御霊により柔和な心で実践する必要があります。