10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。

 

11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまづきは取り除かれているはずです。

 

12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。

 

13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

 

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人が律法をやりたがるのには理由があります。

 

たしかに律法を守ることは見栄えがいいし、見た目にもわかりやすいです。

 

「断食」をしている、ことがもし正しいことであれば、

 

断食をすることによって、自分は正しいと人に証明できます。

 

しかし実際には断食をしたからといって、

 

わたしたちは特段良い人間に生まれ変われるわけでもありません。

 

他の律法もそうです。

 

律法を守る目的が自分を正しい、としたいのであれば、

 

それは無駄なことです。

 

なぜならだれも律法を守ることによっては神の前に正しいと認めらることは決してないからです。

 

それゆえパウロは行いにはよらず、キリストの恵みのゆえの義を宣べ伝えましたが、

 

これが特に律法を守っているユダヤ人にはつまずきとなりました。

 

神の義ではなく、自分の義にこだわればこだわるほどつまずくのです。

 

では、律法を行わず、罪も赦されているからわたしたちはなにをやってもいいだろう、という考えもあります。

 

たしかに律法の下にもはやいないわたしたちは自由なのですが、

 

はっきりしているのは、神がわたしたちの罪を赦したのは、

 

わたしたちがもはや罪を犯さなくなるためです。

 

それなのに自由のな下に罪を犯すなら、それは神の救いの大前提を否定してしまっています。

 

なぜ罪を犯さなくなるか、というと、

 

まず罪とは神を愛さないことから出てくるものである、ということです。

 

しかし神の大きな恵みによって赦されたわたしたちがそれによって神を愛するようになるのであれば、

 

基本的にわたしたちは神を愛さない、という罪を犯すことがないからです。

 

わたしたちが神を愛するときに、肉は働く機会を失います。

 

そして神を愛してるのであれば、

 

その結果として、わたしたちは互いを愛し合うようになるはずです。

 

なぜなら神がその人を命を捨てるほどに愛してるからです。