1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
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わたしたちが聖霊によって自己の頑なさが砕かれ、
神の前に条件をつけずに進み出る時に、
神はわたしたちを新しく作りかえてくださいます。
神の前に言い訳がある内は、まだ完全に砕かれてはいません。
そして、神への十分な信頼がない時にも、
わたしたちは神へ無用な恐れから自己防衛に入ってしまって言い訳をしてしまう時があります。
悔い改めとは、神の圧倒的な愛による信頼から自らを神の御手にまったくゆだねる心と行為です。
そんな時に、キリストとその十字架、そしてキリストの真の愛をはっきりっと知ることができます。
まさに神の求めるのは悔いし砕かれた魂。
それ以外の金や何か能力とか、自己顕示欲から献身とか犠牲とかそんなものはつゆほども神は求めてはいないのです。
ですのでキリストがよくわからない、感じたこともない、神の深い愛を経験したことがない、という人がいれば、悔い改めることをお勧めします。
とは言っても、悔い改めも自分でできるものではなく聖霊によって導かれるものですが、感情は別にでも、自分の罪と思われることを一つ一つ神に告白していく中で聖霊様が働かれることがあります。
悔い改めとは、罪を告白することによって過去の自分へと決別し、神を自分の人生の中に大いに受け入れる行為です。
それをすればキリストをより鮮明に知るのはしごく当然と言えば当然なことです。
しかし、この素晴らしい悔い改めとそれに伴う素晴らしい実ですが、
わたしたちは聖霊によってこのような神の前に頑なではない柔らかい謙遜な心をキープしていく必要があります。
それがキープできない時に、わたしたちはまた自分のやり方に戻ってしまい、
自分のやり方で神に到達しよう、救いを達成しようとなりがちです。
悔い改めは神を義としますが、罪はわたしたち自身を義にしようと必死になります。
わたしたちが自己義に囚われ始めると、途端にキリストへの理解はモヤっとしたものとなり、
わたしたちが真理を語ろうとしても歯切れが悪いものになっていきます。
ですから「自己義」には気をつけ、いつも神こそ唯一正しい方と信じ、
聖霊によって柔らかい心で主に仕えていきましょう。