20 私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。

 

21 それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。

 

22 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。

 

23 けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いてだけはいたので、

 

24 彼らは私のことで神をあがめていました。

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パウロは知識においては多くのアドバンテージがあったのにも関わらず、

 

キリストを迫害したパリサイ人や律法学者たちのように、

 

父なる神の御心とその御心が反映した聖書のことばの意味を理解せず、

 

かえって信仰者を迫害し、神の御心とは逆のことをしました。

 

自分の罪の深いところを知らないと、なにか自分の正しい行いで相殺でき、救われるに足る正しい人間になれるように人は錯覚しますし、

 

わたしたちの中にある罪もそう錯覚させます。

 

悪魔もいい具合に誘惑して、わたしたちがそんな「自分は正しい」という罪の中にとどまるように日々仕向けます。

 

「自分を正しい」と思っている人は、どんなに聖書の知識があろうと、神を知ることができません。

 

というか、神を知りたがろうとしません。

 

ですから神とは真逆のことを行います。

 

神を知れば、「自分が正しい」ということが正しくない、とわかるからです。

 

聖書は、神こそ唯一正しい方、と断定しています。

 

神を知り、神の正しさを知るときに、わたしたちは自分たちが正しくない、

 

とわかります。

 

"6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。(イザヤ64)"

 

そして、自分は心から正しくない、神を否定してまで自分の正しさに固執し、自分こそ神になろうとしている、

 

という罪があることを認めるときに、

 

わたしたちはようやくそれを豊かにゆるす、神の恵みと

 

その恵みによってこんな罪びとさえも救いにあずかれる、という

 

ことを悟ることができます。

 

御霊によって霊的に目が開かれていないとそんなに自分は罪人ではない、と思うかも知れません。

 

しかし、動物ではなく、神の御子のいのちが犠牲にならなければ聖められないほどの罪だったのです。

 

パウロは信仰者を迫害の最中にキリストに出会い、

 

ひとときの間だけ肉体の目が見えなくなりましたが、

 

同時に霊の目が開かれ、主の声を聞いた時に、かたくな心が砕かれました。

 

「わたしはあなたが迫害しているイエスである」

 

わたしたちは罪と罪による勘違いから神を否定したり、神に怒り、神に不平を持ったりするかも知れません。

 

そんな時もあるでしょう。

 

しかし大事なのは今日神の声を聞いたらかたくななままであってはいけません。

 

"きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)"

 

神はパウロのような人の目にはゆるされないような罪を犯したとしても、

 

今日という日に神と正しい関係になったならば

 

「ゆたか」にゆるしてくださる大いなる方だからです。

 

"7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55章)"

 

そして、パウロのようにかたくなで神に反対するものでも

 

神はその人生を変えることができます。

 

なので、自分のかたくなさや、周りの人々のかたくなさがあったとしても

 

神にあってあきらめる必要はありません。

 

神におできにならないことは何一つありません。