10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 

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ここに「キリストのしもべかどうか」の一つの判断基準があります。

 

人に取り入ろうとしてるのか、それとも神にか。

 

また、人の歓心を買おうと努めているのか、否か。

 

わたしたちが父の御前で行おうとしていることは、

 

父の業です。

 

キリストがこの地上にこられたのは、父の業を行うためでした。

 

キリストもやろうと思えば父に聞かずに自分の業を行うことが可能だったでしょう。

 

しかし、自分からはなにも行うことができない、と

 

告白されました。

 

"19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。(ヨハネ5章)"

 

それは父なる神との関係が限りなく親密であるがゆえに、

 

父を無視して自分の業を行うことは心苦しくてできなかったためでしょう。

 

パウロは教会の人たちに自分の教えに傾倒させるため、彼らの歓心を買うために、この手紙の中でもう一度福音を説明しようとしていたのではなく、

 

もう一度教会の人たちの心を子なるキリストに向けさせるためにこの手紙を書きました。

 

そしてそれこそ父の業だからです。

 

父なる神の関心ごとは常に、わたしたちの関心がキリストと彼の恵みのみわざに向かうことだからです。

 

そしてキリストの関心ごとは彼に信頼する人たちの心を父なる神に向かわせることです。

 

しかし残念ながらすべての牧師、信者がそうでは必ずしもないのも現実です。

 

この時代にもそのように人の歓心を買うために活動をしている人たちがいましたが、今もそのような人たちはいます。

 

その人たちは父の業には関心がなく、自分の業に関心がある人たちです。

 

わたしたちは父の業を行なっていきましょう。