1 使徒となったパウロ—私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです—
(ガラテヤ1:1)
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パウロは自主的に使徒になったわけではありません。
自分自身で使徒に憧れて使徒になったわけでも、
他人からの推薦で使徒になったわけでもありません。
そこに自分や人の思いが介在しておらず、ただただ神によって
使徒として選ばれたので使徒になりました。
聖書のどの人物を見ても、自分からこうなりたいと思ってなにか神のための役職についたり、神の働きをしている人物はいません。
すべて神から選ばれ、その働きを与えられて、
祭司や王、預言者、使徒、伝道者など神の働きびととなっています。
一部自分の意志でなろうとした人たちは良い結果を得ませんでした。
それは神がその人をその人が言うようには選んでいなかったためです。
それが神からきたポジションや働きであるとどうやってわかるのでしょうか?
もちろん祈ったタイミングでその祈りの答えがすぐにきたような場合は、
その可能性は高いと言えます。
重要な指標として、そのポジションや働きが自分の欲と離れたところにあることです。
自分にメリットがあるものであれば、よくよく吟味した方がいいと思います。
それによって承認欲求が満たされる、お金が入る、誰かをコントロールできる、異性にモテる、
こんな思いが心のどこかに意識しなくてもあって、
牧師なり、教会の働きを始めたなら、その結果は火を見るより明らかです。
生活のために働きからお金を得ることはもちろん「アリ」ですが、
それが第一の目標となっていたら、絶対「ナシ」です。
もちろん、自分がしたいことでも、御霊くる聖なる熱情と、自分の罪や肉からくる欲望には大きな違いがあります。
本当に神の霊に満ちて、主の意志が自分の意志であるなら、
その人のしたいことはたしかに「神のしたいこと」であり、神の意志、神からきたものです。
そして誰に選ばれるかも重要です。
この天地を造られ、キリストの父であり、彼を甦らせた神から選ばれたのか、
それとも他の悪魔や別のなにかなのか?
もちろん父なる神に選ばれてそのポジションなり、働きにつくことが大事です。
それが父なる神からであれば、その働きの目的は父の栄光です。
自分の栄光ではありません。
そして「使徒」という言葉ですが、教会ではなにかすごく高いポジションのように聞こえる役職のようになってしまいましたが、
もともとは「使者」という意味です。
そこに偉さもなにもありません。
そして使者に求められることは、その使者を遣わした方の思いや考えを
100%代弁することです。
使徒だけではありませんが、神の働きには神を十分に代弁し、神のなさりたいことを十分にやっていくことが求められます。
「自分」ではない、ということです。