5 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

 

6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

 

7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

 

8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。

 

(ユダ5-8)

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救いはすばらしいものです。

 

そしてキリストの血にあずかればどんな罪をも取り除き、ゆるされます。

 

しかし、忘れてはならないのは、わたしたちは救われるために、

 

その状態にとどまっている必要がある、ということです。

 

わたしたちはキリストの中に、また彼の血の中にとどまっている必要があります。

 

もしとどまっていれば出エジプトの過越の時のように、

 

かもいに羊の血が塗られた家は目印となって天使の裁きを逃れたように、

 

わたしたちも神の裁きを逃れることができます。

 

しかしいったん救われたはずのわたしたちが不注意にもキリストとその血を軽んじ、

 

それによって裁きを逃れたのも忘れて、もはやキリストもその血もなんとも思わなくなってしまったとしたら、

 

それは非常に危険な状態です。

 

出エジプトのイスラエル人たちも一度はエジプトから、また裁きをもたらす天使から救われたのです。

 

それなのに彼らは救われたものたちに約束された地であるカナンに入ることはできませんでした。

 

それは主を軽んじたためです。

 

それも一度や二度でなく、何度もこの聖なる方を軽んじて、

 

彼こそ神であって、人でなく、わたしたちこそただの人であって神ではないことを、

 

ついぞ悟ることができずに荒野で死ぬことになりました。

 

こういう人たちは夢見るもの、自分の肉体を汚すもの、権威ある方を軽んずるもの、栄光ある方をそしるものたちです。

 

主は非常に忍耐深く、情け深い方で、本当に優しい方ですが、

 

一方で主は、人ではなく圧倒的な神であることをわたしたちは決して忘れてはなりません。

 

そしてその方のひとり子の血を軽んずるべきではありません。

 

この方を軽んずれば、人はもとより天使だろうと裁きを免れることはできません。

 

わたしたちはこのかたを聖なるおそれをいだきつつ、信頼する必要があります。

 

そのようにしてこの方とこの方の血に止まる時に、救いからもれるということは決してありません。