1 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
2 どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。
(ユダ2-4)
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ここで書かれているユダは、有名な裏切り者のユダや、イエス様の弟子の中にいたもう一人のユダではなく、
イエス様の人としての兄弟のユダであり、マリアの子どものうちの一人で、同じマリヤの子どものヤコブの弟のユダです。
ユダも福音書を見れば、イエス様が宣教していたときには、イエス様を救い主キリストとは信じていなかったようです。
使徒の働きの中でも特に記述がないのですが、兄弟のヤコブ(ヤコブの手紙の著者)が信仰を持つようになり、また使徒となりリーダーの一人となる中で、ユダも信仰を持ち、リーダーの一人になって行ったのかも知れません。
ヤコブの兄弟と書き出してますが、なんの肩書きもなくヤコブといったときに、それはイエス様の兄弟のヤコブ、使徒たちの中でもリーダー格のヤコブのことだとその当時の読者は分かったのでしょう。
使徒にはヨハネの兄弟のヤコブもいましたが、リーダー格になったのは、
エルサレム教会ではペテロ、ヨハネの他にこの主の兄弟ヤコブでした。
そのヤコブの兄弟ユダがあたらめて信者であるわたしたちがどのようなものであるかをここで宣言してくれています。
"父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。"
この父なる神にあって愛され、という部分は、キングジェームズバージョンの方では、父なる神によって聖別され、と書いてあります。
どちらにせよわたしたちは父なる神にあって愛されていて、またその父によってすでに聖別されているものたちです。
そしてまたキリストにおいて守られ、また召されているものたちです。
わたしたちは自分で信仰を持ったような錯覚をするときもあるかも知れませんが、
そもそも神に呼び出されたので信仰を持つに至りました。
そしてその神はわたしたちをすでにそのご自身の尊い血によって聖なるものとしてくださり、
その血によってわたしたちを悪いものから守ってくださっているのです。
わたしたちにキリストが与えられたということは、
他の何にも代え難いことで、そのキリストを通してわたしたちは
今や父なる神のすべての良いものに対して自信を持ってアクセスできるようにもしていただいています。
エペソ書に書いてあるようにわたしたちはキリストを通して、文字通りあらゆる霊的祝福をすでに受けています。
なぜならキリストを信じる信仰によって罪が取り除かれ、それゆえその呪いももうわたしたちの上にはないからです。
キリストの愛も救いも同じなのですが、これはたとえキリストがわたしたちを愛し、
救うためのすべてをしていたとしても、その人がその愛と救いを受け取るまではその人のものになりません。
同じようにすべての祝福も、わたしたちが受け取らないでは、それはわたしたちのものにはなりません。
受け取るために、まずはわたしたちにそのような祝福がすでに注がれているのだと知る必要があります。
そして祝福があるとわかれば、よりそれを深く理解することによって祝福の恩恵をより受けることができます。
その祝福の中にある、あわれみと平安と愛もそれを知ることによって、
つまり父なる神がどれほどあわれみ深く、かつ愛しておられるかと知ることによって、
またキリストの救いがどれほど偉大で確かなものであるかを知ることによって、
わたしたちにすでに注がれているあわれみ、平安、愛はわたしたちの人生の中に
増し加わります。
主はなにかケチな方ではありません。
むしろ祝福をより知って、それをもっと受けてほしいとわたしたちに願っているお方です。