13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
(ヘブル11:13-16)
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わたしたちが死ぬときに、神にどのような評価を受けて死ぬのでしょうか?
ここに書いてある人たちのように願わくは「信仰」の人々として死ぬことができたら最高です。
これらの人たちは神の約束に従って信仰によって歩んだにも関わらず、
約束のものを手に入れなかったと書いてあります。
事実アブラハムが死ぬときにイサクにエサウとヤコブが生まれたのを見ただけです。
これはとても海辺の砂とは言えません。
しかし、アブラハムは神に対して「あなたは嘘つきですね、騙しましたね」といったことは思わないどころか、喜んでいたと書いてあります。
本物の信仰は、それが目で見える形にまでなるかならないかすら問題でなくなるようです。
もう信仰こそが実体ですから、それはもう起こってること、成就していることなんです。
だから喜べるわけです。
アブラハムをはじめ、信仰の人たちは地上のなにかではなく、
天の故郷を最終的に求めていました。
その天の故郷は信仰の道をいった先にある土地であり、
それはある意味自分の肉がもっとも心地よい自分の故郷とは反対側の道にあります。
わたしたちも神の召しがあれば、自分の気持ち良い領域、コンファタブルゾーンを抜けて、自分のコントロールが効かない、神だけを信じ、神にのみより頼む人生に進み出す必要があります。
そのような人たちに、「彼らの神」と呼ばれることを神は恥とは思いません。
天の故郷とは、神ご自身であり、彼らは神ご自身を相続したかったのです。
そのような熱情は肉からは決して湧き上がることなく、
神の霊、御霊によってのみ与えられる聖なる熱情です。