1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。

 

(ヘブル11:1)

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この部分のキングジェームズバージョンの英訳を見てみると、

 

Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen

 

と書いてあり、より原語に直訳的です。

 

つまり、信仰は望んでいることの「実体」であり、見えないものの「証拠」ということです。

 

わたしたちが通常考える「実体」や「証拠」は、

 

すでに目に見えるものであり、なにかすでに起こってることです。

 

それは見えたり、聞こえたり、触れたり、するものです。

 

「俺は海賊王になる!」

 

とは言ってみても、すでに海賊「王子」ぐらいになっているとか、

 

家来が五千人いるとか、

 

そのようなことがなければ誰も信じようとしません。

 

現在の目に見える状態を「実体」や「証拠」だと人は思っているからです。

 

しかし、信仰の世界、神の国の世界においては、

 

目に見えないが望んでいる信仰こそ「実体」なのです。

 

信仰が真の「現実」であって、

 

今目に見える望んでいることの反対の現実は信仰によって

 

覆される一時的な「仮」の現実でしかありません。

 

なので、信仰にあって、

 

癒されない病い、修復できない人間関係、解決できないさまざまな問題は、

 

「仮」の現実であるということで信仰者には希望がある、ということです。

 

では、なんでも望むまま望んでもその通りになるのでしょうか?

 

キリストは一つだけ条件をつけています。

 

"7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15章)"

 

キリストとキリストのことばのうちにとどまっていれば、

 

つまりキリストとそのことばを心の底から信じているなら、ということです。

 

神が祈りを聞かれる目的は、わたしたちが祈りの結果として身を結ぶことによって、父が栄光を受けるためです。

 

そして、わたしたちがキリストのうちにとどまるときに求めるものは、自分の栄光や欲望ではなく、まさしく父の栄光です。

 

その状態であればわたしたちは何でも求め、望んでいいし、

 

そのときにその信仰こそが実体、証拠、真の現実であって、

 

今目に見える状況がどうであったとしても、

 

関係なく信仰の通りにことはなります。