15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
17 遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。
18 したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。
19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
20 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
21 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具に同様に血を注ぎかけました。
22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
(ヘブル9:15-22)
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律法において「血」には大きな意味があります。
"11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ17章)"
律法によれば、肉のいのちは血の中にあり、
なにかのいのちの贖いをするのは同じいのちである血によります。
血によってきよめられ、血の注ぎ出しによって罪の赦しがあります。
これが大原則です。
アベルとカインの物語は有名ですが、
神はアベルの捧げ物を受けられ、カインの捧げ物には目を止めませんでした。
"3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。(創世記4章)"
同じ捧げ物なのになぜなのかと疑問に思う人も、
受け取らない神をいじわると思う人もいるかもしれません。
また、2つの違いにどんなたいそうな違いがあるのか、と
思った人もいるかもしれません。
しかし、アベルはその捧げ物を通して、彼がより全能者がどんな方であるか、
またその全能者の前に人間がどのようなものか、そしてその人間が神の前に出るときにどのようなことが求められているか、
をよく知っていたことを示しています。
すなわち、人間は罪人であり、その罪の贖いなしに神の前に出ることは
本来かなわないことです。
そして罪の贖いには必ず「血」が必要だということです。
生ける神の前に殺されずに出るためには、
自分のいのちの代わりのいのちである血が必要なわけです。
しかもその血は傷もけがれもないものである必要があります。
それをアベルはよく理解していました。
アベルが惜しまずに自分の育てた家畜の一番良いものを捧げたのは、
彼が生活の中で神を意識し、御霊に導かれていたと考えられます。
前記事でも書きましたが、犠牲ならなんでもいいわけではなく、
御霊によってそれがなされる必要があるわけです。
そして御霊によれば、わたしたちは神の前に適切な礼拝や犠牲が
なにかを悟り、御霊に導かれて神に求められることを行うことができます。
わたしたちは自分の想像した好き勝手な礼拝ではなく、
本質に即した礼拝を御霊によって日々捧げていきたいものです。