11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

 

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

 

14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

(ヘブル9:11-14)

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動物とキリストの血の対比の中で、

 

動物の血でさえきよめの働きをするならば、

 

まして罪なき神のひとりごの血はわたしたちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものにするか、

 

ということがここに書かれています。

 

わたしたちはそもそも罪ゆえに死んだ行いから離れることができずに

 

生きてはいても神の前に死んだものであり、

 

自分自身も人生に意味や本当の生きがいを感じていなかったかもしれません。

 

しかし、キリストを知り、その血の注ぎかけを受けました。

 

その血は偉大な創造主の愛する子という、なにを持っても代替することが

 

できない方の聖なる血だったわけです。

 

ですからその血にはきよめにおいて他に例を見ない特別な力があります。

 

何を持ってしてもわたしたちを死んだ行いから解放させるものはなかったのですが、

 

キリストの血には絶大な力があって、それが可能なのです。

 

それはわたしたちの死んだ行いの原動力となっている良心の腐敗を

 

取り除き、すべての良心のけがれをきよめることができます。

 

霊的に良心がきよめられた時に起こることとして、

 

そこには真の悔い改めがあります。

 

真の悔い改めは、後悔とはまったく種類の違ったものです。

 

そこには本当に自分が何者か、神が何者なのか、

 

自分がどれほどの罪人で、神のゆるしはどれほどなのかという

 

罪にまみれてる時には鈍感になってしまっている真の霊的現実を悟らせます。

 

そこには本当に救われたという実感と神の自分への永遠の愛への

 

実感があります。

 

その悟りと実感がわたしたちを生ける神に自然と仕えるものと

 

してくれます。

 

一点覚えておきたい大事なことは、キリストはご自身を「とこしえの御霊によって」父にささげられたことです。

 

どんな犠牲でも神の目的に適っているわけではありません。

 

たとえわたしたちがどれほどの犠牲を払い命をささげたとしても

 

それが神が求めていたこととは限らないことがありえます。

 

鍵は「御霊によって」です。

 

キリストの犠牲であれ、わたしたちの犠牲であれ、

 

それは「御霊によって」なされた時に神の思いにかなう犠牲となります。

 

そしてキリストは100%どんな時も御霊によってご自分をささげていました。

 

御霊が神の思いを知り、神の思いの通りの犠牲、礼拝へとわたしたちを

 

導いてくださいます。

 

わたしたちは自分の好き勝手ではなく、神の御霊によって自分自身を常に

 

ささげて生ける神に仕えていく存在になれますように。