"私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、

あなたがたを強くしたいからです。

 

というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、

ともに励ましを受けたいのです。"

 

(ローマ人への手紙 1章11~12節)

 

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信仰者にとって一番大事なことは、伝道や教会活動ではなく、

 

「互いに愛し合う」ことです。

 

パウロは信者たちを訪れ、互いの信仰によってお互いに励ましを受け、

 

愛し合いたいと願いました。

 

互いに愛し合うことは、伝道や教会活動をしながらもできますが、

 

互いに愛しあわずに伝道や教会活動をすることもできてしまうので

 

注意が必要です。

 

愛し合うどころか兄弟を憎みながらも伝道、教会活動は見た目にはできてしまいます。

 

"神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。"

(ヨハネの手紙 第一 4章20節)

 

兄弟を愛さない人は、どれほどの伝道実績や千人収容できる教会堂を建てても、

 

残念ながら偽り者であり、神ではなく実は自分を愛している人です。

 

伝道・教会活動などは信仰のリトマス紙にはなりません。

 

兄弟や隣人を愛してるかどうかが信仰のリトマス紙です。

 

そしてその人が御霊によって肉が殺され、キリストが内側に生きているかどうかのリトマス紙でもあります。

 

しかし、もし同じキリストの体同士であれば、互いに愛し合うことはごく自然で当然なことです。

 

体の部分同士はお互いに労りあいます。

 

もし左足を痛めたら、左足に負担がかからないように右足やそれ以外の部分が頑張ります。

 

同じようにわたしたちが本当にキリストの体であるならば、

 

わたしたちは互いに愛し合うはずです。

 

そしてこれこそ神の命令です。

 

"わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。"

(ヨハネの福音書 15章12~14節)

 

"神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、

私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。"

(ヨハネの手紙 第一 3章23~24節)

 

"愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。

もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。"

(ヨハネの手紙 第一 4章11~12節)

 

互いに愛し合っているという事実は、その人たちの中にキリストがおり、神の愛が全うされてる、

 

という事実でもあります。

 

へりくだっていて、自分がどれほどの罪人であって、どれほどの罪を神が豊かに赦してくださったかを

 

知っている人たちです。

 

自分が本当に本来地獄に行っても仕方のない罪人であることを知っていて、

 

そしてそれにもかかわらず神に本当に赦されて、本当に愛されたことを知っているので、

 

人を赦し、愛することができる人たちです。

 

人を赦すことができないという怒りを持つのは、自分の方が「正しい」と思う自己義からです。

 

自分はこの人ほど罪人ではない、と心に思う気持ちです。

 

しかし神の前で人の義は自分が思っているほど聖いものではありません。

 

罪深さにおいて、根っこのところで実はわたしたちに違いはありません。

 

また、人の義による怒りはそれによって神の義を実現することもありません。

 

"私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。"

(イザヤ書 64章6節)

 

"人の怒りは、神の義を実現するものではありません。"

(ヤコブの手紙 1章20節)

 

それでもわたしたちは自分の正しさを主張し、訴えたくなってしまいます。

 

しかし、全く正しく聖い方であるイエス様は、わたしたちの身代わりに罪をかぶり

 

身代わりに「罪人」とされるのを「わたしたちを愛するがゆえに」喜んで受け入れられました。

 

もしわたしたちがその神の御子の愛とその心意気を本当に理解するのであれば、

 

他の人たちに対してたとえ損になったとしても

 

「愛する」以外の選択肢はないのだろうと思います。

 

そういう人はキリストのかおりを放っている人です。

 

"ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、

私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。"

(エペソ人への手紙 5章1~2節)

 

※御霊の賜物については重要なので、また別の機会に解説します。