ガラテヤ 6:11-13 教会(人)が聖書的でないときにどう指摘するのが最善か
11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。##########################信仰者、と言われる人たちの中にも外側だけ良くしたい人たちは大勢います。その人たちが本当の信仰者かは分かりません。パリサイ人や律法学者たちはあれほど聖書の知識が豊富で、いわゆる神に熱心な人たちだと思われ、断食も祈りも献金もしていましたが、キリストは、ズレてる、父なる神への愛がない、白く塗った壁、墓場のようなものだと言われました。これはわたしたちが熱心さを履き違えた時にもっとも起こりやすい罪であると同時に、不幸なことにもっとも気づきにくい罪です。自分も他人も宗教に熱心だと勘違いしているので、自分が神の心だけ置き去りにしているのを気づけないのです。こういう人たち(わたしたちもそうなりうるのですが)が陥りやすいのは、自分の宗教の熱心さによって、他の人を見下したり、裁いたり、愛さなかったり、自分がまるで偉くて神にでもなったかのようになってしまうことです。人よりも、立派な教会堂、礼拝会での礼服、あるいはさまざまな教会行事の方がいつの間にか大事になってしまっていて、神がもっとわたしたちにやってほしい、と望んでいる公義や誠実をないがしろにしてしまいます。"7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか(ミカ6章)"肉において外見をよくしたい誘惑はもちろん、肉において外見をよくすることによって教会から迫害を受けない、ということもあるかもしれません。伝統やしきたりを守っていれば波風が立たないかもしれません。自分の意見としては、正しいことを教会に対して言うべきですが、かたくなに聞かない場合、無理やり聞かせようとしたり、なにか相手を裁いたり、騒動を起こしたり、ということは避けるべきだと思います。聖書には正しい罪の指摘の仕方が書いてあります。"15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18章)"わたしたちが神に対して正しいことを行なっていない時、神は無理やりわたしたちを強制して変えようとするでしょうか?神は忍耐して待ちます。ですので、わたしたちはその時その教会なり、その人なりの生き方や人生の選択を尊重すべきだと思っています。ただその教会や人を祈りに覚えるにしろ、そこは去るのが良いと思います。