言葉もない。
ただあの声、あの表情、あの姿態を思い返すばかり。
観客が固唾をのんで見守るその先に、
ラケルの身体。
仰向けになり、透けるような白い手足を投げ出して、
まるで全観客のレイプを受けるよう。
役が女優を輝かせるのか、
女優が役を輝かせるのか。
渾身の演技からほとばしる電流が、
脊髄を走る。
強弱、柔硬、緊張と弛緩、
身体を自由自在に使い、
瞬時もとどまらないラケルの心の叫びや疼きを伝えて、
一人の役者による身体表現の極致を見る思い。
汚れ役なのに、
否、だからか、
ひたすらに美しい。
舞台の上にただ一人、
一挙手一投足に観客の視線を引き付けて演じることの、
なんという役者冥利。
劇中劇で、台に乗って演じるシーンでは、
神々しいほどに、
声の質も、表情も、立ち姿も、
凛々しく変身し、
空気を一瞬で変える。
現実と虚構のあわいをさまようように、
時空や属性を、時に超え、時に強調し、
嫋々として女そのものとなり、
超然として神のような存在ともなる。
求め、せがみ、泣きじゃくり、訴え、
責め、許しを請い、告白し、そそり、拒むラケル。
罵り、嘲り、誘い、立ち去るラケル。
ヘンリック・ヴォーグレルに、
母親のラケルに似ていると言われる娘アンナ。
アンナを見れば、ラケルが二重映しに見えるほどにだろうか。
こういうところは映画の方が、生かせるかも。
病むラケルと、若く健康なアンナに似ているところは
舞台上では、見たところあまり無いように見えるが、
それは、むしろ、台詞の中にあるだろうか。
現実を拒否していることが、
既に、役者向きの資質なんてこともありえそうで、
天に放たれるような自由奔放さも、
よく動く肢体も、その動きのきれいさも、
現実の男女には、あまり見い出せない稀有な資質。
「不幸は沈黙する」ともいうが、
姿を消し、おとなしくしては待つ悪魔のように、
一度では足りず、母親は娘となり、
娘は母親となって、一人の男と関り、
ただ一度の生と関わる。
男は、支離滅裂さを拒否しながらも、
支離滅裂さに、どこか牽引されている。
掻き乱されながらも、
愛してやまない心の鳥を、
憧憬にも似て見つめながら、
羽ばたき去っていく鳥の自由を羨みながら、
我が身は、沈黙を抱いて、
ギリシャ的調和と均衡の世界を、
魂の平安を永遠の理想としている。
全ては、夢であり幻でもあるようで、
後に残るのは、舞台装置としての椅子や、
照明、壁に揺らめき翳った光りのみ。
★
なぜ映像収録されていないのだろう。
こんなに素晴らしい舞台を、
(美術や、衣装、照明も含めて)
映像に残さないのは、
一種の罪だ。
一度しか観られなかったのが残念。
毎日でも観たい舞台だった。
でも、台風の直撃が半日遅れていたら、
一度も観られなかったわけだから、
一度でも観られたことに感謝。
嗚呼、それにしても、あの舞台を観た後では、
なおさらに思う。
一路さんのブランチで、『欲望という名の電車』が観てみたいと。
また、『アンナ・カレーニナ』の再演も期待したいと。
