熊沢英昭被告が、高裁の決定で、
20日午後、保釈された。

 

特別の温情で保釈が決定されるほど、
その殺人に至る事情は、
気の毒に思えるものではあった。

 

娘も絶望して自殺し、
妻も長期に渡って家庭内暴力を受け続け、
自分も殺されそうだと思い、
事件の直前の5月28日に、
川崎市 登戸駅付近で、児童たちが殺傷され、
当日も、近所の小学校の運動会の音に腹を立てていたこともあり、
様々な連想と不安で一杯にもなっていたであろうから。

 

 

でも、私は思う。
いろいろあっての犯行であることは確かだが、
何よりも、最後に彼、熊沢被告が為したこと。
殺人。

 

その姿が、子の眼に映った最後の姿であり、
(現実には見えていても見えていなくても。
突然現れたモンスターのように。)
また、ある意味、熊沢被告の、
もう一人の熊沢英昭の姿であった。

 

殺人者となった父親。
ずっと息子の面倒を見続け、
息子の発達障害から、狂気さえ疑われる暴力的行動や、
母親への長期に渡る虐待も見続け、
娘を自殺に追い込んだ姿も見続け、
それでも、最後に自分自身が取った行動、行為。
精神病院へ入れることではなく、殺したこと。

究極的暴力。

 

殺されるという恐怖からにしろ、
一刺しで我に帰るのではなく、
何度も何度も刺し続けたこと。


それはやはり異常なことだ。
他人であれば、
相当の怨恨を疑われるところだ。

 

 

それは、やはり、
息子以上に異常な自分自身ではなかっただろうか。
殺人を犯す性格が、

少なくとも熊沢英昭氏には隠れていた。


人に二面性があるとして、
息子の方にばかり動物的な凶暴性が

顕著であったのではなく、
父親は、普段、抑圧し、

見事に律してはいても、
実は相当量のエネルギーを蓄積していた。


父の遺伝を息子は受け継いでいた部分が

あったのかもしれない。

農水省次官や、駐チェコ大使をした父親であるから、
物静かな紳士であり続けただろうが、
それでも、内蔵する性格的なものの全貌が
表れていたわけではないだろう。
抑圧されたものが、何らかの形で、
家族に投影された可能性はある。

 

 

それは、やはり、
息子以上に異常な自分自身ではなかっただろうか。

 

他の人の目には見えなくても、
息子の目だけには見えていたもの。


息子は、父親の中に自分を見、
父親は、息子の中に、自分を見ていたのだと思う。


それは、隠された姿ではあっただろうが、
そのもう一人の自分もまた真実の自分自身に紛れない。

 

そして、あらゆる人は、
二人の自分を抱えている。
人間は、誰でも、自分の中に、
天使と悪魔を内在しているとよく言われるが、
極限状況になれば、
そのもう一人の自分が顔を出す。

 

戦争という極限状況が、
平和時には穏やかな人格者を、
残酷な殺戮さえする兵士に変えることは
よく知られているが、
普通の日常ではあまりないこと。

 

ただ、特別な極限状況が、普通の生活に
入り込むことは、ある。
介護殺人などでもあることだが、
人間の中の悪魔的部分が、爆発的な情動を以て、
噴き出すことがある。
マグマが流出するように。

 

その気質の中に、殺害に至るものが、
潜在していなかったとも言えない。


殺意は炎えたち、
感情は抑制できないまでになった。

親子だけに解るものがあったかもしれない。


恋を内蔵する憎しみに似て
或いは、憎しみを内蔵する恋に似て、
当事者同士のみに解りあうもの。

 

一分一厘一毛違っていても、
そうはならなかったかもしれない偶然が重なり、
親子の間の宿命的機縁が重なって、
そうなってしまったのではないかと思えると同時に、
必然的な運命も感じる。

 

 

ギリシャ神話のOedipusを想起させる
このような親子は、離れて暮らす以外に
無事に関係を保つ方法はなかっただろうと思える。

 

またその段階も過ぎて、明らかな精神疾患となれば、
暴力に対する暴力、動物的死闘状態になる前に、
精神病院での治療・入院をさせる以外になかったと思う。

 

一見、反対の極にあるように見えるものも、
火花を散らしながら、
一つのものとなることがある。
殺害という不幸な状態のもとにではあったが。

 

加害者である熊沢被告と

その子どもである被害者は、
反対の人格を持つようでいて、
また生き方も反対のようでいて、
息子には発達障害の形で、
父親には、静かで過剰な抑圧・禁欲的生き方として。


だが、
その究極の本質的激しさにおいて、
殺意に至るまでの同じ激しい形質を持つ
一つの魂の分身であったのだろう。