世の中のことは全て、個人の問題を超えたことが多い。
しかし、個人の問題と切り捨てられることばかりでもある。
世の中の人の考え方も、
個人に問題を持って来がちだ。
公文書改竄から、
生活苦、
就職、
天災も人災も含めての災害、
多少の支援はあっても、
年数により徐々に、
或いは制度改正により終了となり、
結局は、最後までは面倒見られない。
自力で何とかせよと。
こういう世の中に生きて、
先行き、希望はあるのだろうか。
今は無事に恙なき日々を送っているように見えても、
やがては、死ねないから生きているというだけの老後を
迎えるのではないだろうか。
解っていても、その先にある悲惨は、
見たくないから見ないだけ、
なのではないだろうか。
だって、遅かれ早かれ、
最後は、人間誰でも死ぬのだし、
それもせめて70歳くらいで死ねればいいが、
その先も、ぼろぼろになりながら、
まだ20年も30年も生きるかもわからず、
その挙句の果てに死を迎えるわけだから、
それがどのような長い苦しみとなるか、
想像に難くない。
ピンピンコロリの代表のような
野村沙知代さんのように逝ければ、
生きることも怖くはないが、
あれは極く稀な幸運な死に方で、
たいていの人は、
そんなに上手くはいかないことが多い。
雨や嵐に打擲されるように、
恐ろしい始末となるだろう。
既にロコモティブ症候群で
あったりすればなおさらだ。
糖尿病のような万病の元や、
弱い血管でも持っていれば、
いつ最悪の事態にもなりかねない。
もちろん、最悪の事態が、
死でないのは、
言うまでもない。
半身不随、全身不随、
脳神経麻痺、認知機能意識障害で、
何年も何年も、
生き続ける不安すらある。
その状態が何年も続けば、
本人には、それなりの受苦、
家族には交通事故にも似た受難が続くことになる。
もしも何事かあっても、
何年耐えられると思って
普通、人は生きているものだろう。
自分だけは、例外と考えているものだろうか。
滅茶苦茶に暢気か、
何も考えていないか、
永遠の免罪符が発行されていると思っているか。
不幸不運は、扉を叩くことなく、
いつでも窓の外を通り過ぎて行くと。
ある一部の人たちだけが、
想定し、備え、
よほど極端な三重奏とでもならない限り、
万全の準備をしていることだろう。
しかし、
不運こそは連れ立っやって来るもの。
不運の三重奏が奏でられた時、
それを耐えうる仕組みこそ、
個人の限界を超えるのであるから、
国家が設計すべきものだと思うが、
残念ながら、
このような無計画で酷薄な国に
何も期待することは出来ないだろう。
ゆえに、「よほど運の無い人」には、
三重奏が奏でられることになる。
国家は、関係ない。
と言うだろう。
「セクハラ罪という罪は無い」(麻生)と言うように、
国民を見殺す罪もない、と言うだろう。
そんなことは、
それぞれがそれぞれ
自身のために努力するべきことで、
国家に責任はないと。
憲法の規定など、
与り知らぬと嘯くことだろう。
国家として、
最低限のことはしていますよと、
どれくらい最低限かは、問題にはせずに。
勝手な線引きと勝手な条例、
都合が悪ければ、適当な改竄。
お友だちだけは、法を曲げても優遇。
そんな社会の仕組みであるから。
一般庶民が、
例えば脳梗塞や脳出血になり、
要介護4や5になったとして、
もし、その身を他者に委ねざるを得ない状態になったとして、
それが、どれほど大変なことかにも興味も関心も示さず、
そんなことはそれぞれのこと。
国家には責任がないと。
また、国民の方も、見事に右へ倣えで、
その時になればなったで、
何とかなるだろうと、
医療保険もあるし、介護保険もあるし、
行政のサービスも利用できるし、
と、思っているだろう。
その金銭的負担のいくばくかも知らず、
蒸気船の来る前の江戸の町民の如く、
後生安楽を決めこんでいる。
しかし、果たして、
国の保険制度やサービスは頼りになるだろうか。
例えば、要介護度5となった場合、
36万5千円くらいの限度内サービスが介護保険で受けられるとして、
その1割乃至2割の負担だが、
今年から、2割負担になった人が多くいる。
線引きの基準が厳しくなったためだ。
健康保険の方も、一割負担で済む人と、3割負担の人がいるが、
少しでもアルバイトをすれば、その基準を超え、
現役並み所得とみなされて3割窓口負担となる人といる。
この「現役並み」というのは、
常識的な意味でのそれでなく、
あくまでもお役所の線引き上「の現役並み」である。
ちなみに、介護保険適用の「高額所得者」も同じであって、
普通の意味の「高額所得」とは全く意味が違い、
極端な貧困ではない、というだけのこと。
役所の決める「一般」とは、
「低所得者」であり、
役所の決める「低所得者」とは、
立派な貧困ではあるが、
生活保護は受けていない人たち、
というだけのことであって、
さすがに『戦闘』とは、
一般に言う辞書的な意味でのとは違うと説明する政府の
決めた基準であり、用語ではある。
今の日本では、
老後に健康状態を保てなくなり、
介護施設に身を預けなければならなくなった時の為の
十分な資産を持っていなければ、
あっと言う間に、一家全滅が待っている。
今の日本で、介護ほど莫大な消費はないだろう。
逆に言えば、易々と富を得る社会。
土地さえあれば補助金が与えられ、
次々と施設が出来、
人材派遣会社が潤う。
人手を買うわけだから、高いのも仕方ないないだろうが、
その「人手」である現場の職員には渡らず、
地主や介護施設法人、人材派遣業者が暴利を貪る仕組み。
現場の「人手」は薄給で重労働を強いられるだけとなっている。
利用者にすれば、
月20万円30万円40万円という
費用の高さ、庶民に払える金額ではないが、
皆、無理をしても払わざるをえなくされている。
10年かかれば、2000万、3000万、4000万円という費用。
それは贅沢な人だけ、無理、無理、と、懐事情で考えているかもしれないが、
自立できなくなれば、必要とされている費用。
それが、いわば生きて行く値段になる。
待機組が何百人と言われる「特養」でさえ、
低所得者が、減額措置を受けてさえ、
最低、施設の月間利用料だけで、10万円は最低かかる。
10年かかれば、1000万円は必要となる。
もし、施設以外に自宅なり自宅にかかる費用や税金などあれば、
それは除いて。もちろん利用する方の介護保険ではなく、
掛ける方の介護保険税、医療費、諸事雑費、日用品、なども除いて。
大変ではないだろうか。
平気なのだろうか。
普通のこととして支払い続けられるのだろうか。
自分は、その前にあっさり死ねると確信していられるのだろうか。
多分、
有料ホームが上はきりが無く、グループホームでも十数万は最低かかると
知っていても、それだけ待機組の多いという「特養」などは、
月々10万円もかからないと思っているのではないだろうか。
20万か30万の年金の半分近く必要だったり、
国民年金だけの人なら支給額を超過する利用料であると知っていて、
なお、暢気に考えているとしたら。
国会で論議、審議すべき課題だと思うが、
個人の自助努力にまかせ続けるのだろうか。
j
いつかではあるが、
今ではないから考えないだけのことではないのだろうか。
運に任せて、即死にかける国民性。
そろそろ老いを感じる頃になっても、
架空の話でもあるかのように、
他人事のように考えている。
我が身にいつか必ず起きることとは思っていない。
どこまでも、自分だけは、簡単に死ねると思っている。
だから、いつまで経っても、
安楽死法案も審議されなければ、
絶対にそれには反対と言うなら、
個人に任せず、国家が、往生までを看取るという、
防衛から最後の安心を保障する体制への
切り替えも審議されない。
だから、死にも、生きも、できないまま、
宙にぶら下げられている老後の生と負担が残る。
それどころか、
ますます、国家は身を引き、
各自の負担強化へとシフトしている。
誰も真剣に考えない。
そうしている間にも、
寿命だけが、どんどん延びている。
