>そして、選歌は、おのづから添削といふ短詩型文学独自の〈批評〉をともなひませう。添削は、このごろ、数十行といふ現代詩の場合にも、一種の忠告、進言、批評として行われてゐるときいてゐます。
しかし、短歌俳句のやうに、一助詞の添加と削除といつた細かいところに及ぶ場合は,
自由詩では少ないでせうね。
岡井隆/ 『短歌現代』 往復書簡③岡井隆より玉城徹様
>「選歌は、おのづから添削といふ短詩型文学独自の〈批評〉をともなひませう。」
>「しかし、短歌俳句のやうに、一助詞の添加と削除といつた細かいところに及ぶ」
この岡井さんの発言にある添削。(因みに、岡井隆氏自身は添削をしない主義。)
以前にも、このブログで書いて来たことではあるけれど、
どうしても、これだけは、短歌界の習慣として、私の受け入れがたいこと。
習作中、他者の添削を受けて、短歌のイロハを学んでゆくことを、
決していけないこととは言わないけれど、
それは、それとして割り切って、納得の後は、捨てるべきもの。
その添削を受けた一首を、自作として発表したりするのは、いけないと思う。
授業で問題の演習を受け、解き方の道筋を教えてもらうことはいいけれど、
試験で、他者の助けを借りた答案を提出すれば、それは許されない。
それが許される世界というのは、カンニングが許され、
インチキが許される世界と変わらない。
それが、短歌においては、
短詩型だから、「テニヲハが大事」だといいながら、
添削を受け、助詞、助動詞を直され、語彙を正され、
前後の語順を入れ替えたりの、
原案のみを残して解体された不思議な添削までも受け、
つまり、誰の作品か分らなくなった一首が、
堂々と、その人の作品として発表され、歌集に収録され、
平気で、他者の評価を求める場所へ出される。
実に、とんでもないことではないだろうか。
しかし、それがこの世界では問題にもされない。
中には、公募されている各賞の応募作品でさえ、
その所属する結社の先輩や、師に見せてから出す場合もあるという。
なぜ、添削された作品を、作者のものとしてよいのが解からない。
「一助詞の添削と削除」って、
それじゃぁ、全く、全作品も同じではないのだろうか。
だって、そういう詩型なのだから。
たった31音前後しかないのに、しかも肝心要のテニオハとか言いながら、
それを直したりしてもらったら、
それでどうして、自作と言えるだろう。
短歌の生命は、その一音に宿っているはずではなかったのだろうか。
それを、他人が触る。
そして、その他人が触った作品を、自作の中に入れる。
平気で、そういうことを容認する世界がある。
添削された作品は、
もしも捨てないで、自作に入れるとしたら、
添削者名も付記するべきではないのだろうか。
それが変だという神経があるなら、
添削してもらった作品を自作に入れるべきではない。
この短い詩型の中に他者の添削を入れて、
どうして一首を私のものと言えるだろう。
安易に添削を受け入れてはならず、
安易に添削をしてはならない。
添削を受け入れた時点で、その作品は、
その人の作品ではなくなるのだから。
他人の目鼻をつけるようなもの。
作品に不満があるとしても、
作者自身の気づきを待つべきもの。
作者自身の気づきの邪魔をしてはならない。
もし、勉強のため助言を必要とし、
叩き台にするなら、それはそれでいいが、
結果は捨てる。
しかし、短歌俳句のやうに、一助詞の添加と削除といつた細かいところに及ぶ場合は,
自由詩では少ないでせうね。
岡井隆/ 『短歌現代』 往復書簡③岡井隆より玉城徹様
>「選歌は、おのづから添削といふ短詩型文学独自の〈批評〉をともなひませう。」
>「しかし、短歌俳句のやうに、一助詞の添加と削除といつた細かいところに及ぶ」
この岡井さんの発言にある添削。(因みに、岡井隆氏自身は添削をしない主義。)
以前にも、このブログで書いて来たことではあるけれど、
どうしても、これだけは、短歌界の習慣として、私の受け入れがたいこと。
習作中、他者の添削を受けて、短歌のイロハを学んでゆくことを、
決していけないこととは言わないけれど、
それは、それとして割り切って、納得の後は、捨てるべきもの。
その添削を受けた一首を、自作として発表したりするのは、いけないと思う。
授業で問題の演習を受け、解き方の道筋を教えてもらうことはいいけれど、
試験で、他者の助けを借りた答案を提出すれば、それは許されない。
それが許される世界というのは、カンニングが許され、
インチキが許される世界と変わらない。
それが、短歌においては、
短詩型だから、「テニヲハが大事」だといいながら、
添削を受け、助詞、助動詞を直され、語彙を正され、
前後の語順を入れ替えたりの、
原案のみを残して解体された不思議な添削までも受け、
つまり、誰の作品か分らなくなった一首が、
堂々と、その人の作品として発表され、歌集に収録され、
平気で、他者の評価を求める場所へ出される。
実に、とんでもないことではないだろうか。
しかし、それがこの世界では問題にもされない。
中には、公募されている各賞の応募作品でさえ、
その所属する結社の先輩や、師に見せてから出す場合もあるという。
なぜ、添削された作品を、作者のものとしてよいのが解からない。
「一助詞の添削と削除」って、
それじゃぁ、全く、全作品も同じではないのだろうか。
だって、そういう詩型なのだから。
たった31音前後しかないのに、しかも肝心要のテニオハとか言いながら、
それを直したりしてもらったら、
それでどうして、自作と言えるだろう。
短歌の生命は、その一音に宿っているはずではなかったのだろうか。
それを、他人が触る。
そして、その他人が触った作品を、自作の中に入れる。
平気で、そういうことを容認する世界がある。
添削された作品は、
もしも捨てないで、自作に入れるとしたら、
添削者名も付記するべきではないのだろうか。
それが変だという神経があるなら、
添削してもらった作品を自作に入れるべきではない。
この短い詩型の中に他者の添削を入れて、
どうして一首を私のものと言えるだろう。
安易に添削を受け入れてはならず、
安易に添削をしてはならない。
添削を受け入れた時点で、その作品は、
その人の作品ではなくなるのだから。
他人の目鼻をつけるようなもの。
作品に不満があるとしても、
作者自身の気づきを待つべきもの。
作者自身の気づきの邪魔をしてはならない。
もし、勉強のため助言を必要とし、
叩き台にするなら、それはそれでいいが、
結果は捨てる。
