こんばんは。
今週、元経済評論家の森永卓郎氏が原発不明がんのため67歳で死去しましたが、個人的には長年テレビ番組等に出演する中で大きく主張や信憑性が変わった印象です。
特に2023年頃に末期がんであることを公表して以降は、人が変わったように1985年の日本航空123便墜落事故や財務省、経済・金融動向等について陰謀論めいた主張を繰り返した結果、その発言の信憑性は大きく低下しました。
大病を境に精神に異常をきたすこと自体は、リアルタイムでは立憲民主党の原口一博衆院議員、過去にはスピリチュアルに目覚めた芸能人など枚挙に暇はなく、可哀想な点はありますが他人や社会に迷惑をかけるとなると話は別です。
とりわけ森永氏や原口氏のように、かつて一定の信頼を得ていた人物が「ザイム真理教」やら「ワクチン脳」を語るのは社会にとって百害あって一利なしであり、精神が落ち着くまで閉鎖病棟辺りに幽閉すべきですね(汗)。
アンカラの歴史(近世~現代)
本題のトルコ新旧首都旅行記予習編の第2回は、まず首都アンカラの歴史のうち、14世紀後半にオスマン帝国の支配下に置かれて以降について概説します。
1299年のオスマン朝成立以来、アナトリア半島西部から中央部に順調に勢力を広げ、アンカラ占領後はこの街を拠点に半島東部、さらに中東を窺おうとした時期でした。
そして、14世紀末までは「雷帝」バヤジット1世(左の肖像画)の下で更なる領土拡大を進めていたのですが、そこに立ちふさがったのが同時期に中央アジアを拠点に大きく勢力を伸ばしていたティムール(同右)であり、
1402年には両者はアンカラ近郊のチュブク草原で激突し、オスマン帝国軍は大惨敗。皇帝バヤジット1世は虜囚となり、その1年後に牢中で病死するに至ったのです。
(アンカラの戦い)
その結果、アンカラは一時的にティムールの手に落ちたものの間もなく彼とその軍団は撤退し、その後はオスマン帝国が取り戻しています。
以降、オスマン帝国はアンカラの戦い後の空位時代の内戦を乗り越えて東欧・小アジア・中東に跨る大帝国を築き上げますが、その中でのアンカラはアナトリア半島の1県都・州都に過ぎず、歴史的には埋没し続けました。
(上の地図:By Btian P. Dorsam - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=107650610)
(ハイダルパシャ駅:By I, Starliner, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2268833)
また、こうした辺境都市という位置付けは、19世紀末~20世紀初のアナトリア鉄道の開通(イスタンブール~エスキシェヒル~アンカラ線)後も大きく変わることはなく、1919年時点の人口は2.5万人ほどに留まったのです。
しかし、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、戦勝国による広大な帝国領の分割が進められる中で帝国政府が売国的な機能不全を起こしたという国難が、アンカラが歴史の表舞台に立つ切っ掛けとなります。
1920年、英仏とギリシャがアナトリア半島に軍を進めたのに対し、ケマル・アタテュルク(写真1枚目)が中心となってアンカラに新政権を樹立し、国土奪還に向けて反撃に打って出ました。
その結果、想定以上の反撃と抵抗に手を焼いた英仏は早々に手を引き、最後に残ったギリシャもアンカラ政府軍に大惨敗を喫してアナトリア半島から撤退したのです。
さらにアンカラ政府は1922年、オスマン帝国のスルタンを配してトルコ国家の単独政府を宣言し、翌年(1923年)にアンカラを首都とするトルコ共和国を建国します。
(オスマン帝国の滅亡と共和政への移行)
こうしてトルコの首都となったアンカラは、内戦中に増加したとはいえ6万人程度の小都市ながら、官僚・政治家らの移住により急速に人口が増大していきました。
その結果、従来の旧市街(ウルス・スヒエ)が手狭になったため、1924年に新市街の建設計画が定められ、1932年には本格的に都市建設が開始されます。
(トルコ語版ウィキペディアのYasinramazan551さん, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=49098390による)
この新市街建設と政府機関の移転、さらに経済発展による人口増が進む最中の1938年、トルコ共和国建国の父であるケマル・アタテュルクが57歳で逝去すると、クズライ西部の丘に彼を葬るためにアタテュルク廟を建設。
今もトルコの人々に愛される彼の霊廟は、その後も発展と拡大を続けるアンカラのシンボルとして位置付けられ、政治の中枢としての地位を確固たるものとしました。
(Uğurgüler06 - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43790322による)
その後もトルコ全体の経済発展の中で都市部への人口集中が進み、アンカラも都心から郊外に膨張を続けた結果、直近の100年で人口は約96倍にまで増え、旧都イスタンブールに次ぐトルコ第2の都市にまで成長したのです。
歴史や文化、国際都市としての重要性からイスタンブールを追い抜くことは難しいでしょうが、今や単なる政治都市を超えた中東・西アジア有数の世界都市となった点で、近現代に大きな変革を遂げた都市といえます。
イスタンブールの概要(前編)
続いては、今回の旅行で計4泊滞在するメインの訪問先であるイスタンブールの概要を紹介します。
(2枚目の地図:TUBS - このベクター画像には、次のファイルから取得または適用された要素が含まれています:, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15946753による)
イスタンブールは、ヨーロッパのバルカン半島と小アジアのアナトリア半島に跨るトルコ最大の都市であり、古代から東ヨーロッパの経済・文化・歴史・政治の中心として繁栄した世界的に重要な国際都市です。
また、首都アンカラと同じく大都市として県と同じエリアを市域としており、2つの大陸に跨る世界唯一の都市という点でも他に類を見ない都市といえます。
次にイスタンブールの人口は約1,580万人(出典:総務省統計局「世界の統計2024」)と単独の市としてはヨーロッパに含めると最大、アジアでも中国の大都市やデリーくらいしか上回る都市はないほどです。
加えてイスタンブールの人口がトルコ全体の人口の約2割を占め、トルコ国内でも突出した存在といえます。
(Maximilian Dörrbecker (Chumwa) - 投稿者自身による著作物, using this base map, this orientation map and this coat of arms, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21693300による)
一方、市域面積は5,343㎢でその中に約40の行政区が存在し、これは東京23区の面積(622㎢)の約9倍に上る広さとなっています。
ただ、観光客は空港とヨーロッパ・サイドの旧市街・新市街及びアジアサイドのウスキュダル・カドゥキョイしか基本的に訪れないので、観光のために市内を長距離移動をする機会は決して多くないです。
続いてイスタンブールの語源は諸説あり、また歴史的に大きな変遷を辿ったことから、次回以降の歴史の概説でその経緯と併せて紹介したいと思います。
(John Walker from Chicago - fog over Istanbul skyscrapers, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10750299による)
次に気候ですが、ケッペンの気候区分においては地中海性気候と温暖湿潤気候の境界に当たり、気温は夏が若干涼しい点を除けば東京と概ね同様です。
一方、春~秋の降水量は東京と比較して顕著に少ないものの突発的な降雨などはあるため、全体に高湿度で朝霧がしばしば発生(写真)するのは、「ヨーロッパの都市=乾燥」というイメージと大きく異なります。
ちなみに12年前の2月にイスタンブールを訪れた時も雨に見舞われた記憶があり、折り畳み傘は必須ですね。
そんなイスタンブール観光の中心となるエリアは、ボスフォラス海峡と金角湾を挟んで3つの地区に分かれており、その中で最も見どころが集中しているのが、
ヨーロッパ・サイドの金角湾の南の旧市街であり(上の地図の緑の円のエリア)、ブルー・モスクやアヤソフィア、トプカプ宮殿といったイスタンブール観光では欠かせない歴史的建築群が軒を連ねています。
また、旧市街と称するように古代から大帝国の都として発展していたため、アヤソフィアや地下宮殿などのオスマン帝国以前の史跡が集中しているのもポイントです。
次に2つ目が旧市街と金角湾を挟んで北の中世以降に大きく発展した新市街(上の地図の青の円のエリア)で、オスマン帝国時代の宮殿やモスクのほか、近代的な建物や高級ホテル、オフィスビルなども見られます。
特に帝国後期の1856年に完成したドルマバフチェ宮殿(写真3枚目)は、バロック様式と伝統のオスマン様式を折衷した豪華絢爛な宮殿として、
<ドルマバフチェ宮殿の帝位の間>
(Gryffindor - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3797642による)
イスタンブール有数の観光名所の1つとなっています。
そして最後の3つ目は、旧市街・新市街とはボスフォラス海峡を隔てたアジア・サイドであり(上の地図の赤の円のエリア)、歴史的に活気ある港町として栄えたと同時に、近年では新たな観光名所も生まれているそうです。
次に宗教面では、オスマン帝国の下で数多くのモスクが建ち並び、市民のほとんどがイスラム教徒(スンニ派)であることは言うまでもありませんが、
(写真1枚目:Klearchos Kapoutsis from Santorini, Greece - Ἅγιος Γεώργιος ἐν Φαναρίῳ, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20886276による)
古代から1453年のビザンツ帝国の滅亡まで、ローマ帝国の系譜による支配が長く続いた歴史的沿革から、今なおギリシャ正教会の総本山として位置付けられている点(写真1枚目:聖ゲオルギオス大聖堂)も重要です。
加えて、かつてギリシャ正教の聖堂・修道院だった建物もモスクに改装された上で現存しており、アヤソフィアやカーリエ博物館(同2枚目)がその代表例といえます。
(Derrick Brutel - Istanbul, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93539215による)
さて、イスタンブールの概要に関してはあと経済・文化・社会などに触れたいところですが、かなり分量が多くなったので今回はここまでとします。
次回はイスタンブールの概要を仕上げた上で、古代からその名を変えつつ歴史の表舞台に立ち続けたこの世界都市の沿革を辿っていく予定です。
ではでは。