あれから、1週間して84歳の義母が入院中の病院で亡くなり、本当にバタバタしておりました。

 

前より、新日本風土記というBS103の番組、いいなあと感じておりました。子どもの頃は、たぶん「新日本紀行」だったのでは。

 

日本のよいところ、「まるだし」というか、これは知らないことばかりだし何より映像が美しい!

 

感心したのが、「水の旅 潤いの道」の回でした。

これは娘たちが8時には学校に2人とも出ていくので、洗濯物を干し、朝食の片付け、諸々仕事の用意等が保育園児がいた時より容易になり、早くからてをつけられるようになったからで、朝のひよっこはBSで7時半から子どもたちと一緒にみて、そのあと火野正平さんの自転車の旅をみていてそのうち、この「新日本風土記」を上記の事をしながらチラッ、チラッとみていたのがきっかけで惹きつけられた。

 

目を奪われたのが、水の国、日本の水の美しさ。

ドイツにいた時は水は石灰が含まれるため、年寄り型の足首は膨れているのがそのためと聞かされていたし、日本の雨季やらもやはりり難いものだと実感していた。

 

高知の仁淀川、長野の安曇野などなど。

娘の受験に良い話題かと書き留めていたが娘はあまり耳をかさなかったので、主人といつかゆっくりオンデマンドで視聴するつもり。

 

最近、学校説明会にいっても、日本の伝統文化を継承し、今流行の英語、グローバルスタディにつなげて行くという話を聞いたりして、私はピアノにしか目がなかったので、日本のことをちゃんと勉強しておらずにきてしまった。

日本のよいところを外国人に話せるよう、そんな人材を企業人として社会が欲しがっている話も聞き、企業人にならずとも、日本人としての誇りみたいなものは、こういうことを見たり聞いたりして、体験してできて行くものかもしれないと思う。

 

BS103の「1本の道」という番組もすばらしかった。

Eテレの子ども番組も、いろいろに増えて行ってる。

あんなに子どものことにお金や知恵、アイデアをつかって番組を作るのは苦労のしがいがあり、ピアノがなかったら、子どものために教育番組を作る現場にいたらどんなに充実しているだろうかととふと思ったりした。

 

今日も「若狭湾」をやっていて、棚田を「人がいい」と原発誘致に来た人間に言われたことに、ここの人間をバカにした、そんなことでと誘致させなかったおかげで、今も棚田があると、美しい田んぼの景色が流れた。棚田を守り、本当に日本人って、えらい!とここで思った。

 

自分の娘にも、日本風土記は見たくなったら観てね。で録画してのこしておこうかな。

 

私のドイツ4年間の師匠だったフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌア。

http://www.fwschnurr.com/Home

 

ここのところ、職場の図書館に某会社の全集DVDがあるのだが、先生のお得意ベートーヴェンの悲愴ソナタの解釈を少しずつみていた。

 

私の父と1つ違いだったので、ドイツ滞在時はドイツのお父さんだ!なんて思っていたし、父の肺がんで私がこれ以上の勉学を

諦めて帰国せざるを得ない時、先生は私に慰めのつもりか「Das ist Schicksal!」(運命)とおっしゃったのが印象的。

 

私の唯一のコンクール優勝の時は、先生はとても私が優勝するなんてみじんも思っていなかったらしく、とても喜んでくださり、後日あった、 Herr Aschennbrennerという方だったと思うが賞金を出してくださったおじいちゃんからの入賞者記念パーティにケルンだかデュッセルドルフまで、アウディに私を乗せて連れて行ってくださった。

 

肺がんだったと聞いた。私の父と同じ。

6月14日午後9時半だったそう。奇しくも長女の誕生日が師匠の命日とは!

 

先生に習ったことを思いだしたいと、ピアノに向かうがその曲はやはりすぐには弾く気にはなれず、ここ何年も弾けていない現状を、バッハの平均律ハ短調のプレリュードで気持ちの上で打破したくて弾いた。

 

お教室の生徒さんたちはこんなことがあっても変りなく毎日のようにやってくるので、練習したバッハを、生徒さんに聞いてもらった。

「面白い!」「すてき!」という言葉をもらえた。

 

以前から、ピアノ、聴音、リズム、ソルフェージュのほかにプレゼント演奏と称し、生徒さんのために2分から5分くらいのクラシックを弾いてレッスンをおしまいにしていたので、それも普段練習していないとできないこと。

まずもって、指の動きというより、耳!

これが音、音楽、響きのバランスを聞き分ける微妙な感覚から離れていて、昨日は手こずった。都会の雑踏の電子音がそこここで響く世界。

 

師匠はとても耳の良い方で、レッスン中も弾いている私のうち路に窓があり、そこから外を見ながら、「今の○音、1指で弾いたでしょ!」となめらかでなかったことを指摘。指使いまで耳で判断されたことに、当時はびっくり。

 

記憶力も人並み以上、10年前の弟子の卒業試験の曲目と点数まで諳んじたあせる音楽の話も歴史からすべて生きた辞書のようだった。

 

師匠とは門下の中ではまだまだ親密ではなく、もっと長く師事していた先輩たちとは比べ物にはならないが、私のドイツ生活、一生に一度の思い出であり、1月21日の80歳の誕生日にまだ、ベビーカーを持参するか迷った長女を連れ、マイナス8度のドイツ、デトモルトにお祝いに飛んだ。

 

先生と一同に会したパーティでは、なんだかわからないが、とめどもなくポロポロ泣いた。心の洗濯だった。

先生にお会いできて、本当に今の自分がいて、本当によかった。

そう思った。

 

今は、その先生もいない。

 

また、図書館のDVDで先生に会いに行ってきます。

 

 

 

 

 

先日、娘の塾の志望校別クラス国語の課題で、ホロコーストを読んでおくか、写真だけでもみて、入試に出たときに怯まないよう、しっかりこういうことがあってはならないと書けるように望める準備をしておいて欲しいと担当の講師より言われ慌てた。

私が「アンネの日記」を読破したのは中3くらい。近所の図書館でキーワード検索から写真も多くあるものや新書を含めて数冊選んで娘に借りた。

ふと、自分が滞独時代、当時のジャーマンレイルパスで数回旅をした中に、KZ(死滅させられる収容所)ではなかったのだが、ハンブルグから少し田舎のノイエンガンメという収容所跡に行ったのを思い出す。
象徴的な像や各国の死亡者の墓などの写真が数枚あるのみ。すっかり跡地であることがわからなくなっていたのをみてきた記憶がある。その写真を見せたが娘には何も伝わらなかった気がした。

毎回、娘に事あるごとに「毎朝、アメリカのニュースはやらないよ、世界はいつもアメリカばかりみてないよ」とドイツではアメリカはニュースに日本ほど登場しなかったことが、非常な驚きであったことを話し、どうにか視点をずらせるようにしたいと娘だけでなく、自分に言い聞かせている。
自分がかつての敗戦国に留学して、自国もアメリカに負けた国であるが故に戦後歩んだ道も比べてしまう。

アウシュビッツにいくにもポーランドのビザが必要だったあの頃、せめてドイツ国内で行ける跡地はと尋ねたあの想いは忘れてはいけない。

そのポーランドの作曲家、ショパン。「戦場のピアニスト」は本も映画も、日本で未公開なバージョンのもドイツ語で観た記憶がある。
ポーランド人の心、いつも侵略ばかりされていた国民。ショパンもそんな国を思いながらウィーンに出国。ついに帰国できなかった。

ヨーロッパ、またいつか家族で訪ねたいと思う。

もう、娘がホロコーストを話す年頃になったのかと、自分より早い娘の歩みに少し慌てているのかもしれない。

今日はショパンのワルツ、マズルカ、bmollのソナタのさわりを弾いてみたけれど、なんとまあ下手くそなことか。
ただ、若かりし頃からすれば違う角度から感じるショパンの響きであることは確か。
やっぱり、この先私はショパンに取り組みたいと弾きながら思った。