朝日新聞デジタルを読んでいます。

 

有料記事の為、全文を載せることは控えさせていただきます。

 

永瀬拓矢王座、僕が掲げる旗は銅色 「少数派の子どもたちのために」2022年6月9日 18時30分

 
2019年6月、直前に初タイトルの叡王を獲得したことを祝福するイベントの終わりに、永瀬は参加者の子供から「将棋に必要なのは本当に才能ではなく努力なんですか」と質問された。
 

永瀬は笑顔を浮かべた後、真顔になって少年に語りかけた。

 「自分は子供の頃、何をやってもうまくいかない子供でした。でも将棋と出会えた。出会えて頑張ることができた。才能はないとすぐに分かりましたけど、努力することはできたんです。大切なのは好きなことを見つけて、努力を続けることだと思っています」

そして続けた。

 「自分は自分の棋士人生を通して、才能よりも努力の方が大切なんだということを証明したい。何かを頑張ろうとしている子供たちに伝えたいんです。才能は腐ってしまうけど、積み重ねる努力は違う。才能のある人の多い将棋界で、才能のない自分がどれだけやれるか。まだ何も証明していないので、これから証明したいと思っています」

 

「できない子は頑張っていないからできないんじゃなくて、できないからできないんです」。金と銀の動きを理解するのに人より時間がかかったという永瀬王座が語る努力とはーー。

 

「自分は考え方が年単位くらいで変わる人間ですけど、あの時の考えは変わっていません。将棋界のタイトルホルダーは明らかに天才だらけなんです。(渡辺明)名人も(藤井聡太)竜王も明らかな天才ですよね? でも、チャンスは万人に開かれているということ、人の可能性を信じたいと思っていることは変わってないです。将棋界には今も昔も『努力界代表』の人はいなかった。でも、努力を続ければ形になったりすることもある、という旗を掲げたいと自分は思っている」

 「自分は社会的少数派です。社会は多数派が認められやすいもの。自分の思いは9割(多数派)の人には届かなかったとしても、1割に届いたらいいと。自分は客観的に見て将棋界では珍しい存在です」

 

「自分は少数派なので、ここまで来るステップは大変でした。学校というのは自分にとっては大変な場所でしたし、算数の計算を解けて面白いと思ったことは一度もないですし、教師にも恵まれなかった。いろいろなことが……大変だったんです。そんな中、社会が1割ではなく9割を優先することは当たり前で、自分は1割だったのでとてもつらかった。だから、子供たちには、1割に入ったとしても頑張れば何かにつながるということを信じてもらいたいんです。将棋界には金色の旗を掲げる一握りの人がいる。自分は違う色……銅色とかなんですかね……の旗を掲げたい。とても難しいことですけど、考えは変わりません。むしろ、もっと強い気持ちになりました」

 「できない子の気持ちはよく分かります。できない子は頑張っていないからできないんじゃなくて、できないからできないんです。できる人から『なぜ君はできないのか』と言われるのはつらいことなんだと、大人たちにも分かってほしい。一生懸命を否定してほしくない。自分の場合も、もともと将棋が得意だから棋士になったわけじゃないんです。僕も少数派だったから、子供には優しくしてあげたいんです」

 永瀬はあふれ出る思いを吐露するように語り続けた。

 顔は笑っていたが、目は真剣だった。

 強い気持ちを込めるような声だった。

 「プライドという殻に閉じこもるのではなく、大切なのは人から教わろうとする姿勢です。タイトルを取ったり、順位戦で昇級したりする中で、自分は正しいのだ、という高圧的な人間にはなりたくない。大切なのは人から教わろうとする姿勢だと、父(川崎市ラーメン店を営む宏さん)から学んだんです。父は成長するために、他の店にラーメンを教わったり、韓国まで行ってキムチを勉強したりしました。父の背中を見て育ったことが自分に大きな影響を与えています。誰かに教えを請わなければ成長は止まる。止まり、古くなれば時代に取り残されるだけです」~記事は続く

 

 

こんな棋士がいらしたんだ。藤井さんで隠れちゃう。

正直そんな感想でした。

でも、我が子にこれを読んで聞かせたい。

というか、これを目の前にしたら。我が子は自分から読んでくれるだろうか・・・

私が読んで聞かせても、右から左かなあ・・・と。

 

「才能」ってよく言いますが。私は音楽の世界で生きてきて、ずっと「才能」って、誰にも教えてもらえない物と思っていましたし、今もそれは変わりありません。

音楽の世界でも、「才能」はすごくあるのに、努力を全然しない人はすぐに消えてしまってきたのを見てきました。

 

「才能」のある人はやっぱり、そこだけ輝いて見えます!

「すごい!」もう、何も言えないくらい「すごい!」

自分は真似できない。

でも、努力なしでは輝いたままいられないように思います。

 

今朝、この文章を読み、この方の小学校時代の算数を一度も面白いと思ったことはなく、教師に恵まれなかった話、チャンスは万人に開かれている…云々、驚きました。

 

自分もピアノの部屋がごちゃごちゃになっているのを整理して今まで自分がしてきたことを振り返り、もう足腰弱くなって、ダッシュも行動起こすのも遅くなりましたが、気持ちだけでも努力を続けていけたらなあと、気持ちを新たにした記事でした。

 

 

 

 

NHKの朝のドラマです。

毎日拝見しているわけではないのですが、

今日の内容は、途中からみて、

 

上手くいかない時は最初に戻る!

と言うのを再認識しました。

自分だけではない、テレビでもこんなに言っている!

 

出汁だって、地味で良い。

と言うところで、長女に毎日詰めるお弁当にほうれん草の胡麻和えがあるのですが、

あれも、下準備でほうれん草を冷蔵庫から出して、「水につけておく」

このひと手間だけで、全然食感が良くなることも地味な作業で、本当に抜かしたくなる工程ですが、

そんな風にして、人間ってやっていくもの何ですよね。

 

また、これも大学駅伝?か何かの選手を追っていく番組で、高校生まではスパーランナーだったのだけれど、大学生になったら、戦い方を変えねば「これでは勝てない!」と監督に言われ、「ここから、少しでも上げていく、後半上げていけ!」という声がかけられ、私は、「いやあ、ここからがきついのにね、やっぱり、天才も努力なしじゃどうにも行かなくなるんだよね」

なんて朝家族と会話しました。

 

いやはや、うちの娘たちも何かの才能はあるかもしれませんが、今はわからず、そして、今後も分からず、

次女はまだ何のために努力するのかわかっていなくて、流行りの「自走」には程遠い状態笑い泣き

 

 

人生、そう甘くはない。

そう、私も今後の人生、体も衰えては胃腸は弱るし、膝の違和感半端ないし、年だけ取っていってしまいます、トホホ

 

ピアノの方は今月BeethovenのViolin Sonate Op.12-3を友人と試演会で弾きますが、いやあ、もう何をやっているか室内楽の弾き方をもっと勉強したいです。

頼りにしていた室内楽の先生が亡くなってしまい、自分でどう直していったらよいか、正直迷子になっていますぼけー

 

 

ドイツ語は公文を細々と続けていて今Gかな?ホッツエンプロッツのお話。

でも、私、会話が上手になりたいのです。

 

誰か、良い会話のオンラインでも教えていただけないかなあ・・・

 

体力づくりは次女の受験が終わったら、必ず開始することを言い聞かせ、まずは、朝、歩くのから始めたいと思っています。

 

とこう、ここに書けば来年、やらざるを得なくなるかなと、頑張って書いてみました。

 

随分ご無沙汰いたしました。

 

コロナ禍に入ってからいろいろ変わりました。

目下、次女が受験生で、来年度は長女が受験性という事で、本当に自分の気持ちの置き所がないような暮らしをしていますウインク

 

最近ふと、音楽の教科書に載っていた、「夢の世界を」の検索をしたところ、ブログに書いてくださっている方もいて、わざわざというのもなので、もし、この曲やらの関連でこちらに辿り着いた方には、「夢の世界を」を歌っていただいているのでしょうか、この場を借りて、御礼申し上げたいです。

ありがとうございます。

 

「夢の世界を」は合唱曲としても有名で、橋本祥路さんの曲です。

 

その曲の「芙龍明子」と言うのが父のペンネームでして、他にもペンネームはあるのですが、何せ現役で平成8年2月に67歳で肺がんで亡くなって、父がこの曲の作詞者であったことは私たち家族は全く知らず、父も本来の詩の作り方ではないし、作詞家でもない一介の編集員、仕事上でしていたことで、特に母にも話さなかった。

亡くなった後、私たちは会社の方々より聞いて初めて知った次第でびっくりしました。

ペンネームは4つあるのです。

 

父は、朴訥で、昭和一桁生まれで気骨な人でした。

ですから、橋本さんの20歳上のいわば社内では上司。

橋本さんのことを父は昔からとても褒めていました。

 

「芙龍明子」(ふりゅうあきこ)=フラミンゴの当て字から来たそうです。

父はよく壁によりかかり、片足をもう1方の足につっかけ、会社の壁に寄りかかりながら、煙草の煙をくゆらして考え事や社員と話をいしてたようで、170㎝近い人が46㌔で細身のその姿が、「フラミンゴ」の様だと社員からいわれていて、辰年だったのでこれをペンネームにしたそうです。

 

父がした作詞は、「はめこみ」という作詞のやり方で、父が教科書の曲で作詞したものは100曲以上あります。

曲が先に完成して、そこに詩を入れていく作業。

本来は「詩」に「曲」を書くのですが、それが当時ままならなかったらしく、仕方なく教科書に載せるために切羽詰まってやったのが始まりの様でした。

ですから、イントネーションには気をつかったのでしょうね。家族とテレビの歌謡曲を見ていても単語のイントネーションとメロディの音が合わないことはよく言ってました。

 

私が家で父の歌を歌っていても、何も教えてくれませんでした笑い泣き

 

「波のピエロ」平吉毅州さんの曲の時は、自宅でしかも私がウロチョロしているところで「ヤン パン・・・」を書いていました。その頃私は楽譜は読めたので覗き込んで譜を読んで、歌詞の「ヤン パン パパン ルラルラ・・・」をみて、「なんだこりゃ?」みたいに父に言った覚えがありますが、その時も特に何も言わず、ただ、この曲が会社の代表電話のお待ちくださいの時に流れる音楽に選ばれたときは、とても嬉しそうに母に話していたのを覚えていますが、それがまた、父の曲だったとは思いませんでした。〈変な曲を会社の保留音に使ったんだよ〉みたいな感じに聞いていましたニヤニヤ

 

 

そんなこんなで知らなかったのですが、今父がいたら、いろんなことを話せるのに真顔・・・と思います