二日前の出来事ですが。。
夜の東京国立博物館は、少しだけ現実から切り離されたような静けさを纏っていました。

そこで催されている「東博能」。
その中の「夜能」で『船弁慶』が上演されると聞き、お能好きのお姉さんに誘われて足を運びました。
お能を、きちんと観るのは初めてだったかもしれません。
舞台が始まる前、大塚明夫さんの朗読が、雅楽の音とともに空間を満たしていきます。
言葉は説明ではなく、記憶のように、情景のように、こちら側に流れ込んできます。
時間の輪郭が、少しずつ曖昧になっていきました。
そのあとに始まる『船弁慶』。
私は「静と知盛」という演目が好きです。
静御前の別れの舞――あの、どうしようもなく静かな美しさ。
そして、知盛の怨霊としての激しさ。
長刀を振るい、恨みを叩きつけるように舞いながらも、最後はすっと引いていきます。
静と動。
ひとつの身体に、ふたつの世界が同居しているようなあの感覚が、どうしても忘れられません。
お能で観る『船弁慶』は、また違った温度を持っていました。
歌舞伎のように、最初から強い感情が提示されるのではありません。
むしろ、何もないように見えます。
けれど、面の奥から、じわじわと「何か」が滲み出てきます。
気づいたときには、もうそこにいます。
「そのとき義経少しも騒がず」
その一節で、張り詰めていた空気がふっとほどけます。
あの“間”に、すべてが詰まっているように感じました。
そういえば、以前聞いた言葉を思い出します。
お能は「引き算の芸」だと。
削ぎ落とし、削ぎ落とし、最後に残るもの。 それは決して弱くはなく、むしろ抗えないほど強いものだと思います。
歌舞伎舞踊とは対極にあるようでいて、でも根は同じなのかもしれません。
終演後の対談で語られていた言葉が、静かに残っています。
「型に水を貯めていき、それが溢れたときに個性になる」
私は、まだそこまで水を持っていません。 むしろ、こぼしてばかりで、時には勝手に色をつけてしまっている気もします。
だからこそ、今はただ、澄んだままの水を、静かに注いでいきたいです。
夜の余韻の中で、そんなことを考えていました。
【余談】
上野の夜風にあたりながら、
何故かウイグル料理食べに行こう!ということになり、ウイグル料理店へ😂
時空の旅の後は、世界旅行。

