情報は情報として扱うべきであり、感情とは一線を置くべきである | ちびタンクのひとりごと

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インターネット、SNS、生成AI…

この30年くらいで私たちを取り巻く環境は大きく変化してきた。

特に人為的に作られた”情報”からの影響が、えげつないくらい大きくなっていると感じる。

 

この”情報”は脳にダイレクトにインパクトを与える。

 

例えば、何かを食べて”おいしい””まずい”は味覚を通して脳が反応する。

風が吹いて”気持ちいい””寒い”は皮膚感覚を通して脳が反応する。

しかし文字あるいは音声情報は、ダイレクトに脳を刺激する。

もちろん視覚・聴覚を通しての情報ではあるものの、視覚・聴覚自体が快・不快を感じているのではなく、

その意味を脳が理解することによって、快・不快の反応が生まれる。

この脳が意味を理解することによって生まれる快・不快は、五感を経由するものより刺激的でわかりやすい。

 

人は感情が好きだ。

それを得るために生きているともいえる。

そして、人に対して抱く感情が一番手っ取り早く、刺激的であり、激しい。

だけど、その感情は本物かどうかは、よく見極めたい。

”その人に対して”なのか”その人を取り巻く情報にたいして”なのか。

 

感情は快・不快、善と悪、敵味方に二分したがる。

しかし二分するから敵味方になるだけで、本当はもっと複雑で、グラデーションで、連続した複合体なのだ。

だから論破になんて何の意味もないと思う。

ただ、勝った・負けたの感情を得たいだけ。

 

複雑であることを認めることを諦めないで。

考えること、理解すること、微細な差を感じることをめんどくさがらないで。

 

以前、ベジタリアンになった友人が言っていた。

肉を食べていた時より、味覚が繊細になって、より食の美味しさがわかるようになった、と。

 

情報は情報として扱うべきであり、感情として扱うべきではない。

良くも悪くも、有象無象の情報を簡単に取捨選択できるようになった今、とかく感情が煽られるものには注意したい。

その感情は何に対してなのだろうか?

人為的に作らされたものではないのだろうか?

見定めなければならない時代だ。