私は鎖で繋がれていて、白線の枠の中にいると思っている。
でも実際は、その鎖はどこにも繋がれていないし、その白線はいつだって飛び越えられる。
勝手に繋がれていると思っているだけ。
以前、そんなことに気づいたことがあった。
それに気づいても、相変わらず白線の中にいて、そこから出られないでいる。
そのことにフラストレーションを感じている。
先日、とうとうそのそのフラストレーションの扱いに困り、心理学の友人にセッションしてもらったら、
“アドラー的には、それをすることで何かを得してるんだよ。”と言われた。
“徳をしている?”
枠の中にいることで、私は何を得してるんだろう?
白線は、この中にいれば母の愛が受けられる(と思っている)範囲。
それを越えるということは、母の愛を捨ててまで行きたいところ。
飛び越えることはそれに値するのか?
そこまでする価値があるのか?
そこから飛び出してみたい、挑戦してみたいのに、
思ったような結果は得られないんじゃないか?
裏切られるんじゃないか?
そんな怖さと向き合うことから逃げていたんだ。
安心・安全の得を得ていたんだ。
そんなことに気づいた。
でも、それと引き換えに私のパッションはずっと蠢いている。
パッションより安心・安全を選ぶということは、自分のパッションを信じられないということ。
実は自分を信じてなかったんだ。
自分は自己肯定感が高い方だと思っていた。
でも、実は一番大事なところで、自分を信じていなかったとは。。。
ハッとした。
怖いのは変わらない。
でも、自分を信じてみたい。
あー、納得。。。
納得・・・?
んんん。
なんだろう?
この違和感。
違うんじゃない?
白線を飛び越える“行為”自体は今までもしたことがあった。
でも、いつだって枠に中に戻ってきてしまっていた。
そしてまた、私はあの白線を超えたい、と思う。
とすると、私が本当に怖いのは、
飛び越えると思っている“行為”そのものではなく、
超えた先に居続ける、“あり方”なんじゃない?
・そんな人、一握りしかいない
・やって失敗したらどうしよう
・仮に成功しても、誹謗中傷などで傷つくんじゃないか
そんなふうに思って、いつだってこの安心・安全な世界に戻ってきてしまう。
でも本当は、その世界に住み続けたい。
そうハートは望んでいる。
なんか自己肯定感、母の愛、自分を信じる、とか深刻ぶったこと言ったけど、
蓋をあけてみたら、そんなことを言い訳にして、ただ不安でカッコ悪いことしたくなかっただけじゃん。
“カッコ悪い”=人からどうみられるか
を怖がっていただけ。
そんなシンプルな答えがでた2023年の年末。
以前、どういう選択をするかを真剣に悩むことができるのは、
神様に愛されいる証拠だと気づいた。
そして、その時、自分に嘘をつかずに、
正しくハートを掴み、それに従うことを学んだ。
あああああ。
気づいてしまったら、動くしかない。
2024年。
ジャーンプっ
白線を超えた先に居続ける、
あり方を自分に許してみようと思うっ👊
