ある尊厳 | 裸足のピアニスト・下山静香のブログ

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オモテの顔はクラシックピアノ弾き。

音楽・芸術を軸に、気になること好きなことを徒然なるままに。

ここに、私も端くれながら所属する某OB会会報への特別寄稿文がある。会の理事を務められていた、ある映画監督の自死を悼むものだ。ドキュメンタリー映画や本を多く発表し、今後についても壮大なテーマでの創作を温めていた彼が何故、死を選ばなければならなかったのか。背後の事情は、公には伏せられているだろうと想像する。それを知る近しいご友人でやはり映画監督である方が伝えている、事の経緯と彼の無念。この会に向けて語られているものであるから、ご本人の了承なしにここでその全てをつまびらかにすることは憚られることをお断りしておきたい。ネット上になんの情報も出ていないのは、関係者だけが知り、されど関係者なら口をつぐむしかない、狭い「業界」の問題が含まれているからだ。


芸術創造に携わるものにとって、その仕事で生きていくためには他人の理解が欠かせない。どの分野であろうと、まずは自分の作品の価値を認めてもらわなくてはならず、その価値に対してお金を出してくれる人がいて初めて、生業として成り立つ。そうでなければ、いかに上手くても世間は“プロ”とは呼ばない。


映画制作の場合、実現には多額の制作費が必要なわけで、その費用を出す人なり団体なりが不可欠となってくる。

(自主ドキュメンタリーなどでは、カンパによって制作費をまかなうという方法もあるようだ。たとえば1000万円集めるとしたら一人(一口)1万X1000。どちらにしても、作品の価値や意味、そして「創りたい」という思いを、理解し共鳴し応援してくれる<ひと>が費用を出してくれるということだ。)

しかし、制作過程で往々にして生じてしまうのが、制作する側と出資者との意見の相違。そんなときどこを曲げずに貫き、どこを譲るのか、というのは映画監督を業とする者が常に直面する問題だという。故人の場合、その問題が、“表現の自由”の尊重を誰よりも強く願い監督の権利を守ってくれるはずの団体とのあいだに起きてしまったのである。


裏切られた思いで深く傷ついた彼は、ほどなくして心の病を得た。本当に純粋に、映画を通しての創造にその命を賭けていたのだ。団体の側にも言い分はあるだろう、細かい事情を知らない部外者の領分で軽はずみなことはいえない。彼は生前、問題となった映画の(日の目を見なかった)ディレクターズカット版のテープをこの方に託した。その思いの重みと託された責任を感じ、できるなら多くの人に観てもらい、両者の対立点がどこにあったのか、そして故人の苦悶について考えたい、と思っていると追悼文は結ばれている。


芸術家の権利、芸術活動と金銭・・・これらは、芸術創造に人生を賭けているものすべてに共通する問題であるはずだと訴える言葉は、痛みとともに深く届いた。

生きて闘ってほしかった、と思うのは失礼なことかもしれない。

彼自身が決定し選んでしまった、自らの生き方だったのだから・・・