きな子の後をついて、順平は病院の玄関を入って行きます。
まず、病院の薬局に挨拶をしないといけない。
順平は、初めての挨拶を、どうすればいいか考えて緊張しました。
薬局長は怖いひとなのだろうか?
根間薬品なんて、弱小ジェネリックメーカーの新人の挨拶を聞いてくれるのだろうか。
玄関から事務会計のフロアの隣に、薬局の入り口がありました。
きな子が言います。
「挨拶する事、練習して来たやろうな。ちゃんと言うて、うちの薬を採用してもらわなあかんからな」
順平は不思議そうな顔をしました。
「薬の採用って、先生がするんじゃないんですか? 薬局がするんですか?」
きな子は小声で純平に言いました。
「もちろん採用は医師が決めんねん。せやけど、採用の会議には薬局長も出るからな。ほんの些細な事が決め手になる事もあるねん。気を抜いたらあかん」
「ふぅーん」
「背筋伸ばさんか!じゅんペー!」
きな子は、冷静な表情で、薬局のドアをノックしました。
後ろには順平が、先ほどばら撒いたビニール袋を中身がぐちゃぐちゃに入ったまま抱えています。
「失礼致します。わたくし、根間薬品の、粉木田と申します。薬局長様おいででいらっしゃいますでしょうか」
きな子は上品な声でドアに向かって言った。
返事はない。
数分待って、再度きな子はドアを叩いた。
「申し訳ありません。わたくし、根間薬品の・・・」
そう言った所でドアが開いた。
出て来たのは、おそらく20代の、髪を後ろでヒラヒラしたシュシュで縛った、白衣を着た可愛い女性だった。
「根間薬品さん、薬局長と約束されてます?」
そういう声も、賢そうに聞こえた。
それに対して、きな子の声は少し小さくなった。
「申し訳ありません。こちらにはしておりませんでした」
女性は、少し強い口調で言った。
「薬局長は、今不在にしております。次回は約束をしてからいらして下さい」
順平は、綺麗なのに強い事も言える、その女性に惚れ惚れとしてしまった。
「では」
女性が閉めようとするドアの下に、きな子はさっと素早く足を挟んだ。
その靴は、黒くてビジネスパンプスのように一見見えたが、よくよく見ると、ゴム製のカンフーシューズだ。
一体、そんな靴をどこで手に入れたのだろう。
「うち、新しい社員が入りましてん。これからお世話になると思いますから、中杉さんだけにでもご挨拶させて下さい」
きな子は、足を力強く突っ張りながらも、そんな気配は微塵も見せずに、穏やかな笑みを女性に向けた。
と、すぐさま順平の方を向き、ビニール袋を渡せ、と目で合図してきました。
合図なんだな、と順平は察知し、文具品がゴタゴタと入った、しわくちゃになってしまったビニール袋を、女性に手渡そうとしました。
「名刺、名刺」
きな子が小さな声で純平に言う。
相変わらず足は、おそらくものすごい力でドアが閉まるのを抑えている。
順平は、今度はビニール袋を落とさないようにしながら、ポケットから財布を取り出し、そこから名刺を一枚出して、女性に頭を下げて渡そうとしました。
女性もポケットからピンクの革製の名刺入れを取り出して、そこから一枚名刺を出して、順平に渡しました。
薬剤師、中杉舞香、と書いてある。
舞香・・・美しい名前だ。
この薬剤師さんに似合っている・・・・
舞香は、薄汚いビニール袋と名刺を受け取りました。
ビニール内の文房具の魅力と、きな子の足の力に負けた形だ。
「こんな所で話すのもなんですから、ドアの内側に入って下さい」
ようやくきな子は足先をドアの下から外す事ができた。
足は痺れていないのだろうか。
きな子は、そんなそぶりはつゆとも見せず、舞香に話しかけた。
「中杉さん、うちの新しい商品のパンフレットです。今、精神科で使われているアブリナ・・・」
舞香は、きな子の言葉を遮った。
「パンフレットは、机の上に置いといて下さい」
「はい・・・」
柄にもなく、きな子が舞香の言う事を聞く。
そこに、奥から野太く明るい声が聞こえて来た。
「舞香さーん、この輸液、うちの分、持っていきますねー」
舞香が、奥のカーテンを開けた。
カーテンの奥に、病棟ごとの輸液が積んであった。
野太い声の主は、頑丈な体つきの、でも笑顔の似合う看護師スタイルの青年であった。
持ってきた台車に、精神神経科、と書いてある。
「うん、もう揃ってるから大丈夫よ。所でさぁ、コータ」
「はい、何でしょう、舞香さん」
このコータという看護師も、舞香の美しさに参っている様子だ。
「今日さぁ、河野先生、外来?」
コータは、輸液をどんどん台車に積みながら、明るく答えた。
「はい。そうです。午前も午後もです」
そこに、きな子がつぶやいた。
「河野先生、外来にいるんや・・・ねぇ、コータくん」
「はい、何でしょうか」
「外来、時間通りに進んでる? もし時間が取れそうなら、河野先生と話したい事があるねん」
コータは、大きな輸液を揃えながら、返事をした。
「今の所、大きなトラブルもなかったから、時間通りに済むと思いますよ。きなこさんが来てるって先生に言っときましょうか?」
「おぉ、そうしてくれたら助かるわ。話は一応軽くしてあるんやけどね」
「わっかりました。じゃ、舞香さん、これ持っていきますね」
重い台車を運ぶコータを見送った後、きな子は舞香に挨拶をした。
「それでは私どもは、この辺で。どうもお時間をとって頂き、ありがとうございました」
舞香は、きな子の方を向いたが、特に返事をしなかった。
きな子と順平は、薬局から出て受付のソファに座った。
受付前には、まだ患者さんたちが座っている。
きな子は、ボソッと言った。
「薬局長、おんねんで」
「え、でもさっき、舞香さんがいないって言ってたじゃないですか」
「だからジェネリックは馬鹿にされてんねん。これはもう、ここでは覚悟しとき」
「は、はい・・・_
順平は、綺麗な舞香が、そんな嘘をついていたとは信じられなかった。
きな子が疑り深いだけなのだと思っていた。
「ちょっと、スクワットしてくるわ。そこで待っとり」
「はい・・・」
きな子が、スクワットという時は、大体お手洗いなのだが、本当に外でスクワットをしている時もあって、10分位はいなくなる。
一人で座っていた順平の所に、なんと舞香がやって来た。
「あっ、あっ、ま、舞香さん・・・」
「あの女、どこ行ったの?」
「はぁ、ちょっとスクワットに・・・」
「はぁ?スクワット? 何言ってるの? これだからこういうメーカーは信用できない」
はっきり言うのだなぁ、と純平は内心思った。
「ねぇ、今からおたくら、精神科の外来行くの?」
「挨拶に行く、とは聞いてますけど、いつ行くのかまではまだ・・・」
「河野先生の所に行くんでしょ」
「はい、そうです。河野先生に、僕の事、紹介するからって言ってました」
「何で、あの女、河野先生と親しいの?」
「??」
「あの女、河野先生と何かあるの?」
「まさか・・・」
「二人はよく話してるんでしょ」
「えぇ、まぁ、時々電話したりしてるみたいですけど」
「それなら、わかるでしょ、二人がどんな間柄か」
「えー・・・、そんな変な感じじゃないと思いますけど・・・」
舞香が綺麗な唇をひんまげた。
「それならいいけど」
「・・・」
「河野先生は、あんな女のどこがいいんだろ。女にも見えないんだけど」
「・・・ボールペンや修正ペンを持っていってるからですかね・・・?」
「それだったらいいけどね。あ、また持ってきてね。あのさ、4色ボールペンないかなぁ。今どこのメーカーも黒一色の鹿持って来てくれなくてさ」
順平は、4色はすごく高いのにな、と思ったが、注文を取らないといけない立場だ。
「はい、また次回にでも」
「必ず持って来てちょうだいね。待ってます」
舞香に、待ってる、と言われて、順平は舞い上がりそうになった。
が、それもその瞬間だけの話だった。
「ねぇ、おたくの粉木田って、変な女よね」
「はぁ、まぁ、すこし・・・。でも仕事はできるという評判で・・・」
「知ってる? あの女、もうひと種類名刺持ってるらしいわよ」
「あぁ、なんか、聞いた事あります・・」
「粉木田希菜子とかって、書いてあるらしいわよ。綺麗ぶっちゃって。その名刺を河野先生に渡してるのかしら。まさか、そんな事で河野先生が気に入ったりする訳ないけど。ほんとに変な奴。あの回文女」
「回文女?」
「一緒にいてて、気づかなかった? あの女の名前、逆から呼んでも同じよ」
「へ? 粉木田きな子・・・こなきだきなこ・・・あ、ほんまや!」
「今頃気がついたの。やっぱり根間薬品ねぇ。根間薬品だって、逆から読めばマネ薬品だし。あいつにぴったりやわ。でも何で、河野先生と・・・」
舞香は、お上品な姿のまま、腕組みをした。
しばらくして、きな子が戻って来た。
額に汗をかいているところを見ると、本当にスクワットをして来たみたいだ。
「順平、河野先生が、最後の患者さんが終わったら時間取ってくれるって。外来に行ってあっちで待ってよう」
きな子は、席を外していた間に、河野医師と連絡を取っていたのだ。
舞香の言うように、二人はよく連絡を取っている。
「こっち。ついておいで」
順平は、きな子の後をのこのことついて行きました。
精神科外来は、他の科と少し離れた場所にありました。
そこだけで、一つの病棟になっているような感じで、外来もあり、奥に入院患者もいるようでした。
入り口にはドアがついており、外来時には開放してあるが、それ以外の時間は閉じられているようでした。
ドアのすぐ近くに、外に通じるドアもあり、ここも日中は解放されているようで、喫煙所になっていました。
入院患者らしく、パジャマ姿の男性が、タバコを吸っている。
と思えば、すぐまた別の患者がタバコを吸いに来る。
特に何か話すでもなく、皆穏やかな様子だ。
順平は、精神科を見るのがまだ珍しいので、つい、あちこち見てしまう。
待合室のテレビは、NHKがつけられた状態で天井近くに取り付けられている。
NHKが、一番刺激の少ない番組をやっているから、と言う事なのだろう。
隣のきな子は、綺麗な姿勢で座って両手で腹部を触っている。
きな子はどうやら呼吸時にお腹の筋肉を思い切りへこませて、腹筋を鍛えているらしい。
「あのな、じゅんペー、まずは、深く静かに息をお腹いっぱい吸い込むんや。スゥー・・・
そして、細く、深く吐き切る。スゥー、この時、手を添えて、お腹の筋肉を絞り切るまで息を吐きき・・・うぅ、、」
「きな子さん、良いです、良いです、説明しなくても・・・」
何でも、体幹というのは、全く体を動かさなくても鍛えられるので、待っている時には最適なトレーニングらしい。
今の順平には、なぜきな子がこう言う事をいつもやっているのか、まだわからなかった。
ただの、ブルース・リーのファンなのだと思っていたのでした。
行く人もの患者が、喫煙所に行き来した頃、さっき見かけたコータが、笑顔できな子を呼びにきた。
「河野先生がお呼びですよ」
「いつもありがとうね」
きな子は、コータにハイタッチして、診察室に向かっていった。
「順平、今から挨拶するんやで!」
「頑張れよ」
コータも明るく順平の背中を叩いた。
それは、元気の出る痛みを伴った。
「先生、失礼致します」