言わずと知れたことですが、
「殺菌剤や消毒薬」
これらは、菌などの微生物を殺すための薬剤になります。
菌は汚くて、コワイものだから、速やかに殺してしまうことこそが最適な処置。
私たちは菌を殺すことに対して、ほとんど躊躇が見られないわけなのです。
殺菌剤や消毒薬の働きとは、菌の細胞内部のタンパク質。ココに薬剤を送り込むことで、細胞内タンパク質を
"変性させていく"
棚泊変性作用によって、菌を殺すことができる仕組みになっている。
弱毒性で、致死率も重症化率も極めて軽微。いまだ存在証明すら行われていない『コロナウイルス』。この架空のウイルスに対しても、
「次亜塩素酸ナトリウム」
皮膚を傷め、肺を傷め、体を消耗させるばかりの薬剤を手に塗布したり。スプレーで部屋中に撒き散らしたり。
学校やオフィスの消毒として、空間内に噴霧する。
このようなことが盛んに行われ、現在も続けられているのです。
でもここで考えておきたいのは、菌たちの細胞と私たちの体の中の細胞との違い。菌たちの細胞には植物と同様に、
「細胞壁」
が備えられている。細胞壁とは外敵から細胞内部を守るための硬くて強い『防御壁』。
この厚くてカタイ壁に外側を囲まれているのが、菌の細胞の特徴になるのです。
でも、私たちの60兆といわれる人体細胞にはどこにも細胞壁は備わっていない。
あるのはわずか一枚だけの、薄い細胞膜。これだけしか備えられていないのです。
"裸に薄いタオル一枚・・・"
セクシー女優のような姿が人体細胞の特徴。このようにいえるのではないでしょうか。
■動的で平衡!
殺菌剤や消毒薬からしてみれば、細胞壁のある菌たちを殺すよりも、人の細胞の方がずっとカンタンで、実に殺しやすい。
わずか薄い膜一枚の人体細胞にとりつき、タンパク質を変性させ、破壊してしまう。
よりカンタンでお手軽で、リーズナブル。
安易な殺菌消毒は、自分の体の中の細胞自身を傷めつけてしまう。
こんなあまりに残念な結果を招き寄せてしまうのです。
人体においても、田畑においても、殺菌や消毒といった愚かな振る舞い。最大限、慎まなければならないと思うのです。
私たちの体はたとえ傷口に化膿菌が入っても、免疫細胞が駆けつけそれを無害化させていく。
こうした仕組みがそもそも備わっているのです。
そして薬剤などに頼らなくても、自分でキズ口を修復し、皮膚を修復させるだけの
"皮膚再生因子"
が働いてくれる。皮膚再生のための因子は分かっているだけでも、40種類以上存在することが確認されているのです。
キズはクスリが治すのではなく、私たち自身の体の再生能力によって治るもの。
トカゲのシッポがまた生えてくるのと同じで、傷を治すだけの力を人体は充分に備えている。
ちょっと前の記事で紹介させて頂いた、『動的平衡』。
これが生命のチカラであるといえるのです。
※参考:『食べたものが血となり肉となっていく!その証明が為された日のこと』
もちろん普段から衣食住の生活環境をできるだけ自然な状態に整えておく、このことは大切な条件になるのでしょうが・・・。
「キズも病気も医者とクスリが治している」
現代医療はそう主張して止まないわけですが、薬剤を使えば、免疫細胞も、皮膚再生因子も破壊してしまいます。
薬剤が治癒の邪魔になってしまうので、キズの修復が遅くなっていく。遅くなるどころか、キズ跡が深く残りやすくなってしまうのです。
キズを負ったら患部をキレイな水で洗い、乾燥しないように配慮した後は皮膚の
"したいがまま"
に任せておく。そうすると、キズ跡が残らず、速く・キレイに元の状態に戻すことができるのです。
■選択にあり!
これは農法においても同じです。
有機農法も一般の化学栽培も、土は単に根っこを支える
「土台」
に過ぎない。このようにしか考えられていないのです。
土に作物を育てるだけの力はないので、人が有機肥料や化学肥料を与えなくてはならない。
これが有機を含めた現代農業のあり方といえるのです。
一方、肥料も農薬も一切使わない『自然栽培』は、土は完全栄養で、土そのものが養分の
"カタマリ"
このように考える農法になります。
完全なのだから、人は余計な手出しを一切しない。新たに土に異物を投入せず、過去に使った異物・不純物を土から排除していく。
こうして土の力を最大限に引き出すための工夫を、自然界の法則に習って実行する。
それが肥料も農薬も一切使わない自然栽培というわけです。
私たちの生命は完全なのか?それとも不完全なものなのか?
現代医療が言うように、脆くて弱くて情けない。そのようなものなのかどうなのか?
もし完全であるのなら、その力を阻害し、妨げてしまうものは何であるか?
どのような条件を整えれば、完全なる力を最大化できるのか。
現代医療は事故などによる大ケガの際の救急救命医療には絶大な効力を発揮しますが、感染症や慢性症状に対しては甚だ
『無力!』
そう言わねばならない面があるのです。
私たちはこの点を突き詰めて考え直す必要があるのではないかと思うのです。
命は何でも知っている。生命は生きるのに必要なすべてを熟知し、備えている。
問題はその力の発動を自ら低めてしまうのか?それともどこまでも高めていこうとするのか?
その選択ではないかと思っているのですが、あなたはどのように思われますか?
■参考文献