あるイベントに参加する事にした。


野山を散歩しながら、自然を

楽しみましょう、というイベント。


お昼を買う所が周りにあまりないらしい。

お弁当を用意するので、

いる人は申し込んでくれ、と通知がきた。


お肉を一切使わないベジ弁当だった。

シトリン欠損体質の私には、

まずそうとしかうつらず、食べれるものが

ほぼない。


調整君、というアプリのツールを使って、

いる、いらない、が一目瞭然でわかる。


そこに並んだのは、申し込み、に押された

必要、の○の数。

コメント欄には、美味しそう!楽しみ!の

嬉しい言葉ぼかり。

そこに不要の私の○がひとつポツンとあった。


ただ、いる、いらない、の意思表示なのだけれども、

身体に優しくて、美味しくて、

地球にも優しい的なアピールの前提での、

申し込み不可を問う書き方。


結構きつかった。


見た目では、わからない障害をかかえた1人としては、

言葉にできない感情が湧き起こる。


疎外されたわけではないのに、

孤立感。疎外感。

共感、気持ちを共有できない苦しみ。


お弁当を開けた時に、肉しか入ってない私のお弁当。

どう思われるのだろうか?

これしか出来ないし、

これでいいのだけれども、

ベジ弁当の中の私。


スイミーだ。



自分はこれだ!という表現のひとつかもしれないが、

頭の中を駆け巡るのは、

奇異な目で見られないか、

質問される事はないか、

そんな恐怖にも似た感情。


今まで幾度となく説明してもわかってもらえない

私の病気。

どんなに説明しても、わかってもらえないし、

自分でもうまくは説明できない。


甘いものがだめ、というと、果物を出され、

糖分と炭水化物がだめ、と説明すると、

何を食べて生きているのか?としつこく聞かれ、

説明しても、何度も質問を繰り返してくる。


アレルギーではないから、

体調によって、糖分を少しばかり

口にすることもある。


きっと、食べる、という行為は、

当たり前すぎて、当たり前でない事に遭遇したり、

自分の理解を超えると、許せないくらいの

感情が湧き上がるのだろう。


この前は、牛乳を出された。

シトリンはタンパク質を好むので、

ヨカレと思って、出してくれたと思う。


しかも、ものすごく高い値段の牛乳だった。


糖度が高すぎるな、と一瞬で見てわかり、

口をつけなかった。


どう思われただろうか。


説明すれば良かったのだろうか。


理解を求めているわけではないのに。