あるブログから参考になったので、転載させてもらいました。
やはり無意識から意識化された状態が現象化して、目に見える形や知覚として反応し、判断してしまうという人間のパターンが見えてくる説明がわかりやすく書かれています。
以下、転載です--------------☆----------------
仏教では因縁を浄化するとか、カルマを切るとかカルマを解脱するとかいいます。
それは無意識の領域にある望まない記憶や現象を生み出すもとの情報を浄化することです。
意識というのは自覚する場所です。
自覚するから、理想の自分を思い描いたりできる。
「いい自分でいたい」とか「理想の自分」というのがいる。
自分の理想から離れた醜い部分に、妬んだり、嫌悪感を持ったりする。
結果、醜い自分を抑えて いい自分を演じようとします。
醜い心を持ってる自分を、理想の自分で無いと抑えると それが無意識に沈んでいく。
そうすると無意識は本音の世界だから抑え沈んだものは、またいつか原因を作って現象化します。
でも抑えなければ、不調和を生み出してしまうので表現できない。
結果、それが抑圧ばかりを繰り返すことになります。
だから現れてきたのを見て、「自分の中にどんなものが潜んでいたかを知る」。
現れたものを浄化する、自分の嫌なものを浄化する手段は「現れたものを自覚する」ことで出来ます。
表現しても反省しても消えないのです。
何故なら無意識に原因が残ってるから、浄化するには現れたものを自覚し捉えないと出来ません。
ここで問題なのが、現れたものを自覚し捉えたときに、「それを責めたり、変えようと努力することです。
ここに最大の落とし穴があります。
自分を責めたり、変えようとしても変えられません。
じゃぁ・・どうすればいいか
ただ、こういう傾向があるんだなと知る。
これだけでいいんです。
これが意識浄化の極意になります。
自分にはこんな所があるんだな~ と知ればいいのです。
現れてくるのは、鏡に映しだされた自分の汚れです。
肉体や心 人 現象は全てこれを知るためだけに現象化しています。
例えば妬む気持ちが無意識にあるとします。
あるから当然出てきます。
その時に「ああ、自分は妬む心を持ってるんだな」と判ればいい。
心の中に妬みが出てきたということは、まだ妬みを行動に現す前です。
何も思わずに意地悪を言ったり、行動に現す人もいます。
でも行動に現す前に、必ず心に現れてる筈で、言動を起こす前に現れる状態を自覚することが大事です。
そうすると、こんな妬みがあり、自分は妬みからこんな行動をしょうとしてると自覚できます。
無意識を浄化するのに努力はいりません。
努力がいらないというのは、こういうことを言われるとこんな怒りがこみ上げてくるだなとか、こういう状況を見ると、自分はこういう妬みを抱くんだなと、ただ自覚するだけだからです。
ただ知る(識る)と消えます。
それを見れば消えると表現しています。
見れば消えるのですが、ところがそれをすぐに判断してします。
こんな心がある「良くないなぁ」とか「こんな心を変えないといけない」とか「改めないといけない」とか、そういう風に思うときは自分の心を見ていません。
それは判断してるからです。
判断して自分も人も責めてはいけない。
善悪を持ち出してはいけません。
知るということに徹し、自分にどういう傾向があるか、自分にどういう心があるかを「ただ知る」だけでいいです。
これは宗教の誤りでもあるんですが、宗教は教えにより「汝の敵を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」といいます。
「~なさい」と命令されたら、そうしようとします。
しようとすると、心の中にあることと裏腹な行動をすることになるので無理がでます。
本当は自分の中にある否定的な感情を抑えこんでしまう。
それを抑圧というのですが、そうすると余計に心が汚れてしまいます。
偽善と自己欺瞞は同時発生します。
偽善な外に対して、欺瞞は自分に対しててです。
自分は宗教や精神世界の教えによって、立派な人格を持った神にも仏にも愛されるべき振る舞いが出来るな~と思うのは自己欺瞞です。
本音の部分では違う意識を持ってるのに、それを見ないようにして抑えて自分を褒め称えてる。
自己欺瞞を暴くのは難しく、本当に自分の心の中を良くみないと判りません。
巧妙に自分の心を誤魔化そうとするから、自分の心を真正面から見て、心に欺瞞がないか誤魔化しがないか、心のそこから行為をしているのか見ないといけません。
自分はイエスの教えに従って、本当に人類を愛していて愛のある行動が出来ているのならいいのですが、自分の感情の反応を見ないようにしている状態で、「愛ある行動」を行っていて、自分の心が愛一色になってるかのように受け取ってるなら自己欺瞞です。
また、自分は仕事をしていて忙しく疲れてるとします。
その疲れてるのを見ないようにして、「嫌だなぁー」と否定して、そういう自分でありたくないと生き生きした状態でサービスや行動をしてるのだ。
自分はなかなかいい奴だと思って自惚れてるのも自己欺瞞です。
見れば消えるというのは、自分の中のネガティブな部分をちゃんと見ないと消えません。
消えていけば、自分の中で反応は起こらなくなります。
現象というのは見るたびに消えていく、浄化のチャンスです。
「自分にはこんなところがあるんだな~」と知ればいい。
これが意識浄化や霊性の開発の極意です。
やはり無意識から意識化された状態が現象化して、目に見える形や知覚として反応し、判断してしまうという人間のパターンが見えてくる説明がわかりやすく書かれています。
以下、転載です--------------☆----------------
仏教では因縁を浄化するとか、カルマを切るとかカルマを解脱するとかいいます。
それは無意識の領域にある望まない記憶や現象を生み出すもとの情報を浄化することです。
意識というのは自覚する場所です。
自覚するから、理想の自分を思い描いたりできる。
「いい自分でいたい」とか「理想の自分」というのがいる。
自分の理想から離れた醜い部分に、妬んだり、嫌悪感を持ったりする。
結果、醜い自分を抑えて いい自分を演じようとします。
醜い心を持ってる自分を、理想の自分で無いと抑えると それが無意識に沈んでいく。
そうすると無意識は本音の世界だから抑え沈んだものは、またいつか原因を作って現象化します。
でも抑えなければ、不調和を生み出してしまうので表現できない。
結果、それが抑圧ばかりを繰り返すことになります。
だから現れてきたのを見て、「自分の中にどんなものが潜んでいたかを知る」。
現れたものを浄化する、自分の嫌なものを浄化する手段は「現れたものを自覚する」ことで出来ます。
表現しても反省しても消えないのです。
何故なら無意識に原因が残ってるから、浄化するには現れたものを自覚し捉えないと出来ません。
ここで問題なのが、現れたものを自覚し捉えたときに、「それを責めたり、変えようと努力することです。
ここに最大の落とし穴があります。
自分を責めたり、変えようとしても変えられません。
じゃぁ・・どうすればいいか
ただ、こういう傾向があるんだなと知る。
これだけでいいんです。
これが意識浄化の極意になります。
自分にはこんな所があるんだな~ と知ればいいのです。
現れてくるのは、鏡に映しだされた自分の汚れです。
肉体や心 人 現象は全てこれを知るためだけに現象化しています。
例えば妬む気持ちが無意識にあるとします。
あるから当然出てきます。
その時に「ああ、自分は妬む心を持ってるんだな」と判ればいい。
心の中に妬みが出てきたということは、まだ妬みを行動に現す前です。
何も思わずに意地悪を言ったり、行動に現す人もいます。
でも行動に現す前に、必ず心に現れてる筈で、言動を起こす前に現れる状態を自覚することが大事です。
そうすると、こんな妬みがあり、自分は妬みからこんな行動をしょうとしてると自覚できます。
無意識を浄化するのに努力はいりません。
努力がいらないというのは、こういうことを言われるとこんな怒りがこみ上げてくるだなとか、こういう状況を見ると、自分はこういう妬みを抱くんだなと、ただ自覚するだけだからです。
ただ知る(識る)と消えます。
それを見れば消えると表現しています。
見れば消えるのですが、ところがそれをすぐに判断してします。
こんな心がある「良くないなぁ」とか「こんな心を変えないといけない」とか「改めないといけない」とか、そういう風に思うときは自分の心を見ていません。
それは判断してるからです。
判断して自分も人も責めてはいけない。
善悪を持ち出してはいけません。
知るということに徹し、自分にどういう傾向があるか、自分にどういう心があるかを「ただ知る」だけでいいです。
これは宗教の誤りでもあるんですが、宗教は教えにより「汝の敵を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」といいます。
「~なさい」と命令されたら、そうしようとします。
しようとすると、心の中にあることと裏腹な行動をすることになるので無理がでます。
本当は自分の中にある否定的な感情を抑えこんでしまう。
それを抑圧というのですが、そうすると余計に心が汚れてしまいます。
偽善と自己欺瞞は同時発生します。
偽善な外に対して、欺瞞は自分に対しててです。
自分は宗教や精神世界の教えによって、立派な人格を持った神にも仏にも愛されるべき振る舞いが出来るな~と思うのは自己欺瞞です。
本音の部分では違う意識を持ってるのに、それを見ないようにして抑えて自分を褒め称えてる。
自己欺瞞を暴くのは難しく、本当に自分の心の中を良くみないと判りません。
巧妙に自分の心を誤魔化そうとするから、自分の心を真正面から見て、心に欺瞞がないか誤魔化しがないか、心のそこから行為をしているのか見ないといけません。
自分はイエスの教えに従って、本当に人類を愛していて愛のある行動が出来ているのならいいのですが、自分の感情の反応を見ないようにしている状態で、「愛ある行動」を行っていて、自分の心が愛一色になってるかのように受け取ってるなら自己欺瞞です。
また、自分は仕事をしていて忙しく疲れてるとします。
その疲れてるのを見ないようにして、「嫌だなぁー」と否定して、そういう自分でありたくないと生き生きした状態でサービスや行動をしてるのだ。
自分はなかなかいい奴だと思って自惚れてるのも自己欺瞞です。
見れば消えるというのは、自分の中のネガティブな部分をちゃんと見ないと消えません。
消えていけば、自分の中で反応は起こらなくなります。
現象というのは見るたびに消えていく、浄化のチャンスです。
「自分にはこんなところがあるんだな~」と知ればいい。
これが意識浄化や霊性の開発の極意です。
