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中国は天安門事件を歴史から葬り去ろうとしている

 

2024年6月4日、天安門事件から35年を迎える。民主主義と自由を求めた学生の抗議活動は流血の惨事で結末を迎えた。抗議活動は1989年4月、学生たちが政治的・経済的自由を求めて、広場を占拠したことから始まった。しかし、学生たちと政府の交渉は失敗に終わり、中国共産党は戦車と兵士を広場に送り込んだ。兵士たちは集まった学生たちに発砲、数百名が死亡した。いっぽうでは、中国は事件を歴史から葬り去ろうとしており、事件に関するキーワードの検索も禁止している。

 

1989年6月4日早朝、中国共産党政府は天安門広場に戦車と兵士を送り込んだ。政府は軍に対して、どんな手段を使っても良いので、広場から学生たちを排除するよう命じていた。結果は翌日の朝まで続く流血の惨事となり、数千の兵士が群衆に発砲し、死傷者数は数百人超えたが、正確な犠牲者数は、現在も分かっていない。

 

抗議活動は1989年4月に始まった。民主化に理解を示した胡耀邦・元総書記の死を追悼する学生たちが集まった。胡氏は在任中、改革開放路線と自由化路線を推進し、多くのエリート学生の支持を集めた。数万の学生と市民が北京の中心地にある天安門広場に集まった。抗議者たちは多くの不満を抱えており、言論の自由の拡大、収入アップ、インフレの抑制などを求めていた。4月22日、胡氏の追悼大会が開催された後、学生たちは政府に要求を出したが、政府はこれを拒否した。

 

4月26日、人民日報はこの集会を「混乱」と呼び、党を攻撃していると批判する記事を掲載した。記事は集まった学生と市民の怒りに輪をかけたのだ。5月13日までに、天安門広場の群衆は約3万人に膨れ上がった。多くがそこで夜を過ごし、百名を超える学生がハンガーストライキを始めた。また多くの学生がちょうど中国を訪問していたソ連のゴルバチョフ書記長との面会を求めて座り込みを行った。5月19日、改革派で学生との対話を主張した趙紫陽総書記が学生たちと対面し、妥協を求めたが失敗に終わった。その後、趙氏のライバル、李鵬首相が戒厳令を宣言した。

 

5月20日、人民解放軍は北京に向かい始めた。学生たちは兵士に支持を訴えかけた。同じ頃、学生たちの抗議活動は分裂し始めた。明確なリーダーはいなかったが、学生たちは広場の占拠を続けた。約1週間、占拠は続けられたが、明確な安全上の懸念はなかった。「自由の女神」を模した、高さ約9mの像さえ出現し、多くの若者が公然と政府を批判した。党は再度、動き出し、6月2日、党の高官は「首都に秩序を取り戻す」と述べた。翌日、約2万5000人の兵士の動員が始まった。軍には、6月4日午前1時に広場に入り、午前6時までに群衆を排除することが命じられていた。

 

天安門事件を研究している歴史家のWu Renhua氏によると、兵士はまた「自衛のための行動と、障害を取り除くためのいかなる手段の使用」が認められていた。6月3日午後10時、天安門広場の西、約5kmで市民に対する最初の発砲が報じられたと、ABCが伝えた。軍は6月4日午前1時30分に広場に到着した。学生たちは抵抗したが、多くは丸腰であり、石などを持つ者もいた。装甲兵員輸送車が学生たちの列を突入し、広場に入ろうとして学生たちに発砲し、流血の後、広場の学生は排除された。当時、党は兵士を含む241人が死亡し、7000人が負傷したと発表した。いっぽうではイギリスの外交官は1万人の死者数と書き残している。