例えば、和道会の空手で、ツッと飛び込み突きをするとします(ドンッではありません)。その時、首が少し仰け反ったようになる(顎が出る)とします。

 その姿勢を見た時、40歳代までの弟子ならば「顎が出るね、目線がブレるから修正しよう」と言います。

 それが60歳代以上だとしたら、あなたはどう指導しますか?

 私なら「頚椎に何か障害があるかもしれないから、ちょっと検査に行ってごらん」が一言目です。

 さて、其処に氣が届かないレベルの指導員だと、

「顎が出るな、目線がブレるから修正しなさい」

「はい、しかし頚椎4〜5番の左側が潰れているのと、心臓の手術で右頚の動脈に3回穴を開けたので固くなっていて…」

「……」

「どうしても……」

「言い訳をしない」

となるケースが多いと思いませんか?

 無理をしてでも動かすな、です。

 其処に氣が届くレベルの指導員だと、

「顎が出るね、目線がブレるから修正しよう」

「はい、しかし頚椎4〜5番の左側が潰れているのと、心臓の手術で右頚の動脈に3回穴を開けたので固くなっていて…」

「……」

「どうしても……」

「そうか、頚椎に問題があるなら無理すると危ないから、頚を固定するような筋肉の使い方じゃなくて、まず背骨を揃えることからやってみようか。それと、動作として、伸び上がらない飛び込みを意識してみよう」

 とかと、全体を見ながら指導します。

 「言い訳をしない」は、簡単に強制するフレーズ、指導できないから口をついて出るフレーズです。

 例えば膝を壊していたとします。正座ができません。或いは正座から立ち上がれないとします。それでも「挨拶は正座。座礼に決まっている」とは言わないでしょ? 代わりに立礼がある。或いは重心位置のずらし方や正中点の移動で、立ち上がれる位置を探してみるとか。

 座る形には、座らなくても良い、立っての形がある。

 股関節に異常があって蹴りが上がらなければ、中段や上段を狙わずに脛蹴りにしても良い。

 要は、指導する側のキャパシティです。そうした事を指導できないのなら、指導者ではない。

 因みに

「顎が出るなぁ、カックンカックンしておかしい。顎が動かないようにしないと。」

「はい、しかし頚椎の4〜5番が潰れているんで、固められないんです。どうしましょう?」

「言い訳をしない」

は、私が70歳過ぎて言われたのであります。

 それでなくとも、頚椎の故障で左の肩にはいつも痺れがあります。筋トレして首の筋肉でフォローして、漸く痺れは疲れた時だけになりました。しかし、(床屋さんでの洗髪のように)仰向けで、少しでも首が反ると、頚から肩にかけて痛みやら痺れやらが起きます。

 で、その稽古では頚を意識して動作しました。当然、顎が出ることもなくスムースに動作できます。

 「できるじゃないですか」と言われたものの、頸椎が潰れているわけですからそこは無理をしている訳で、その時点で痺れが復活。左の小指は小さな痙攣を起こしてピクピクしっぱなし。稽古の夜は、指が震えてしまってビアタンブラーを持てませんでした(これが一番辛い😅)。

 で、どうしたかと言うと、左の頚椎のズレから左右の頸の細い筋肉の凝りが起きている事に思い至り緩消法を使って緩め、●●をして、そして●●を●●して、更に目標に対しての●●を多少●●る事で調整しました。こうする事で、動作をしても痺れる事はなくなりましたが、左小指の小さな痙攣はなくなりません。

 指導というのは、技を教えるだけのものではありません。


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 「氣」は、あります。そして、実はその「氣」にも、色々と種類があるのです。

 特に、一つの武術なりを続けると、その武術に関わる「氣」は察知しやすくなります。

 嘗て1990年代に板橋区東新町に住んでいた、40代の頃の話です。となると、空手を始めて25年くらい経っていますね。四段くらいだったかな。

 住まいの最寄駅は東武東上線の常盤台ですから、始発駅は池袋です。ですから、買い物やらは結構池袋に行っていました。

 扨て、ある日の事。当時まだ幼稚園児だった息子の手を引いて、池袋の雑踏を歩いていました。サンシャイン通りだったと思います。

 すると、人混みの向こうから、何やら途轍も無い「氣」というか「オーラ」というか「空気が濃い」というか…「殺気」というものがあるとしたらこういうものか、と感じられる…兎に角、途轍もなく怖い何かがやって来るんです。人混みの向こう…です。何なのかは見えません。でも、確実に何かが来ます。

 数十秒後、人混みの中から歩んで来たのは…かの極真会最高師範であり新格闘術・黒崎道場の黒崎健時先生 !!!!!

 空手バカ一代で読んでましたし、私の頭の中は「ウォぉぉ!!!!!!!」です。

 1m程の間隔を通り過ぎて行かれ…私は、無謀なことを考えました。

 (よし、10m位は離れただろう)と思って振り返り、息子の手を離し、正中点に意識を溜めて、思いっきり眉間から黒崎先生の背中に向けて、自分の最大限の「やる氣」を「ドン!!」っと。

 どうなったと思いますか?

 黒崎先生はフッと立ち止まり、あちらを向いたまま左の肩越しに私を一瞥したんです。

 私は反射的に一氣に直立不動、「禮っ!!」。

 怖かったぁ!!」

 私の頭の中は「ウォぉぉ!!!!!!!」です。

 1m程の間隔を通り過ぎて行かれ…私は、無謀なことを考えました。

 (よし、10m位は離れただろう)と思って振り返り、息子の手を離し、正中点に意識を溜めて、思いっきり眉間から黒崎先生の背中に向けて、自分の最大限の「やる氣」を「ドン!!」っと。

 どうなったと思いますか?

 黒崎先生はフッと立ち止まり、あちらを向いたまま左の肩越しに私を一瞥したんです。

 私は反射的に一氣に直立不動、「禮っ!!」。

 怖かったぁ!!

 ね、「氣」はあるのです。


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 書き置いておかなければいけない事の一つ目…です。

 嘗て、1980年代に板橋区東新町に住んでいた頃の話です。

 非常に懇意にしていたIさんという方がいました。何かの折だったのですが、板橋区大山の自宅に伺った時の事です。

 Iさんのお母さんと色々話していた時です。私が長年空手をやっているといった話題になったのですが、唐突に「あぁ空手ね。オーヤマ君は元気にしてるかね?」と。

 「いやぁ空手といっても色々に流派がありますからね、個人名ではいささか…」

 「あぁ、そうなの。強かったのよぉ、あの子。」

 「試合でも見たんですか?」

 「いぃやぁ、昔ね、私は店をやっていたのよ。それでね、いつだったかヤクザに絡まれてさ」

 「?」

 「丁度、オーヤマ君が来ててね。」

 「??」

 「あっという間にやっつけちゃったのよ。」

 「!?」

 「それで空手っていうのを知ってね。」

 私の頭の中は「!?!?!?!?!?!?!?」です。

 (ひょっとしてオーヤマ君って、極真会館の大山総裁? まさかぁ!? でもそれって、「空手バカ一代」に出てた逸話だよね!! それにすぐそこが池袋だし…)

 「あのお、その人ってひょっとして池袋の…」

 「あぁ、池袋で空手の道場やってる筈よ。」

 「!!!!!!!!!!!!」

 あの話し、本当だったの!?

 「空手バカ一代」って、あながち只の漫画じゃなかったんだ……

 因みにIさんも総裁も半島出身ですから、そうしたご縁もあって知り合いだったのでしょう。

 いやぁ、驚きの逸話でした。


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 先般上梓した「天河大辨財天社磐座の真実」に何を書いたのか…と言う問い合わせ…と言うか問い掛けが多々ありましたので、その内の一部を、本に書いていない点から申し上げます。

 例えば明治期まで、我が國には「神=GOD」「愛=LOVE」という解釈はありませんでした。キリスト教や西洋文明に寄って作った概念、翻訳です。

 そしてまた、「Shine(輝く)」はポジティブな言葉ですが、ローマ字読みすれば「SHINE(死ね)」です。

 となると、神道やらで言う「言霊」とは何でしょう。

 私が言いたいのは(まだまだ研究途中なのですが)言霊とは、文字としての言語ではなく、「音(on)の周波数なのではなかろうか」と言うことです。

 よく言われますが、我々は地球のシューマン周波数と共鳴していますし、電気機器や医療機器では電磁波に代表される周波数を使っています。音としての周波数では、倍音であったり、自律神経に作用する528Hzであったり…音だけでなく、虹に見られるように色も周波数、私が長年指導してきたメンタル・ビルドアップ・システムのベースである脳波も周波数です。

 つまり、この世界は周波数で溢れている。

 そしてトマティス理論や埼玉医大に居られた和合先生の言われるように、生体は周波数に反応する訳です。

 しかし人間は、目に見え、耳で聞き、鼻で嗅げ、舌で味わえ、肌で触れられる範囲でしか、この世界を認知していません。眼耳鼻舌身意です。

 そこから「言霊」を考えます。

 神主さん方の揃っての祝詞の奏上や僧侶さん方の読経の声明があり、それがなされる神社寺社の構造があり、それにより起きている「可聴域以上の、人には聞くことのできない、生体反応に頼る反応を惹起する周波数」が、「言霊」になるのではないかと。

 そしてまた、武術とは、固定化された人間の感覚を超える修練であり、固定化された人間の感覚を狂わせる術であるのではないかと思うのです。つまり、認知し得る周波数域の拡大、「領域展開」に他ならないのではないか。

 その為に必要なのが前頭葉の解放であり、その修練の一つが禅・瞑想・αコントロール・自律訓練。

 ここのところが判っていないと、メンタル・トレーニングもフィジカル・トレーニングもテクニカル・トレーニングも結びつかないのです。

 だって…心技体で一つ…って、昔から言われてるじゃないですか。

『 99頭の牛を所有する男がいました。

彼は、あと1頭の牛を手に入れると切りのいい100頭になると考え、わざとオンボロの服を着て、貧乏人になりすまして、遠くにいる友人を訪ねて行きました。

友人はたった1頭の牛を持って、暮らしています。

「お前はいいなあ、俺は貧乏になったんだ。子どもたちにたべさせることもできなくなった、助けてほしい」

彼は友人にそう訴えました。

もちろん嘘。彼は99頭の牛を所有する大金持ちです。

「そうか、きみはそんなに困っているのか…ぼくであれば、この1頭の牛がなくなっても、妻と力を合わせて働けばなんとかなる。

だからこの1頭の牛をきみに差し上げる。この牛を連れて帰って、お子さんたちにミルクでも飲ませてほしい」

貧しい男はそう言って、友人に1頭の牛を布施しました。

大金持ち1頭の牛を手に入れ、

「これで切りのいい100頭になった」

と、喜んで寝ます。

一方、貧しい男も、

「友人を助けることができた」

と思って、喜んで寝ました。

さて、どちらの喜びが本当の喜びでしょうか…

 

 これに対してこんな解説があります。

 

金持ちの喜びはたったひと晩の喜びです。

彼は翌日目が醒めると、「切りのいい100頭になった。さあ次の目標は150頭だ!」と考えました。

すると、彼が所有する100頭の牛は、その瞬間に、マイナス50頭。

マイナス50頭は、ゼロ以下です。

そして彼は、これをマイナス40にするために、さらにマイナス30、マイナス20にするために、あくせく、いらいら、がつがつ…とした人生を送らねばなりません。

それで150頭にできるとは限りませんが、仮に150頭にできたとしても、喜びはたったひと晩です。彼は、次は目標200頭でがんばらねばなりません。

そして「あくせく、いらいら、がつがつ」の人生を送るはめになります。

それに対して貧しい男の喜びは本物です。

彼は妻と力を合わせて働き、のんびり、ゆったりと生きることができます。

たった1頭しか持たない牛を友人に布施できるのですから、彼はがつがつはしません。あくせくはしません。

「のんびり、ゆったり」と人生を楽しむことができるのです。

さて、どちらの喜びが本当の喜びでしょうか… 』

 

と。

 さぁて…お金とは、こんなものなのでしょうね。

 貨幣の絶対量が決まっていれば、片方が儲かれば片方が損をします。損益計算書の基本みたいなもの。

 そして自由奔放な暮らしをしているかのようなお金持ちAさんは、一頭の牛で懸命に働く貧乏なBさんの自由を奪いました。自由としつつ自由に挫折しました。しかし逆を言えば、精神の余裕と言う自由を手に入れたBさんは、1頭の牛でAさんの精神の余裕と言う自由を奪いました。

 J.S.ミルによれば、自分が自由になるとは他者の自由を奪うことで、他者の自由とは、自分の自由が奪われること。つまり自由とは不自由になると言う事です。これが「功利主義」。Businessですね。

 近江商人の「三方よし」という考え方もあります。三方よしとは「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三方が満足している状態。

 売り手だけが儲けを得るのではなく、買い手にとっても満足があり、最終的には事業を通じて地域社会の発展に貢献するのが目指すべき商売の形であるという考え方で、これこそが日本式商売だと思っています。

 扨て又、金本位制の物々交換経済は、銀行制度やカード払いの発展で、通帳があるうちは記帳されたただの数字が「残高というお金」になり(御社からウチに振り込んでいただくのも、現金ではなく数字の移行ですもんね)、通帳もなくなりつつあって今や「雲の中のデータ」になってしまいました。

 

 将又、脳波や潜在意識を研究して来た立場からすると、γ波(〜30Hz)=過我(過意識)、β波(30~12Hz)=我(顕在意識)、α波(12~8Hz)=自我(潜在意識)、θ波(8~4Hz)=真我(深意識)、δ波(4~0.5Hz)=無我(無意識)です。

 α-トレーニングで潜在意識の扉を開き自分の煩悩を知り、更にθ域の7.83Hzの一次シューマンで地球の電磁波情報と共振する。

 別の言い方をすると、バリバリレベルのγ〜β波エゴ的功利主義か、揺らぎレベルのα〜θ波ハイヤーセルフ的精神主義か、かな。

 

 どちらを選ぶかは、あなた次第です。

 別にどっちも悪くないし^ ^

 昨日は、まず朝イチで仕事を済ませ→フィットネスで筋トレ→腰と心臓裏のマッサージ→整形外科で左肘に衝撃波治療→眼科で緑内障の定期検診。

 今日は今日とて、やはり朝イチで仕事を済ませ→整形外科で左肘の電気治療→板橋の帝京大学病院で心房細動の定期検診→池袋のクリニックで無呼吸症候群の定期検診。

 眼も心臓も無呼吸も、基本的には遺伝と仕事のオーバーワークが発症原因。

 ま、爺いだって事ではありますが😆

 31日でまた誕生日が来ます。

 それまで70歳のうちにと計画していたのが、先々週の「京都芸術大学」の卒業。人生2回目の大学卒業です。これは叶いました。

 もう一つが、50数年続けている空手道七段位の合格。一昨日、その年一の審査を受けました。六段位合格は57歳の時。七段位挑戦は64歳から。めげずによく続けたものだと思うのですが、なかなか合格に至りません。

 しかし心房細動の再発で、形の稽古だけでもアドレナリンで心臓がパニクって心拍が160〜200になってしまうのでDr.Stopが掛かり、今回の審査結果がどうあろうと、これで受審は最後に……と思っていたら、審査後、気持ちが軽くなっていました。

 合格することが命題になっていたのか、毎年3月が近くなるとストレスだったんでしょうね。

 で、これからは文系に進んで、滴滴の煎茶と約束のウクレレかなぁと😂

 いや、でもその前に真剣を一振り仕入れ…って、諦め切れないねぇ😆

 猪木さんのテーマで「Fight !!」

 明日は建国記念日(紀元節)です。

 紀元2684年…世界で最古の天皇制の君主国として建国され、以来連綿と継承された天皇の統べる国ですから、つまり日本は世界で最も古い歴史を持ちます。

 二番目に古いサンマリノは世界最古の共和国で、その創設はB.C.301年とされますから紀元2325年。

 デンマークはB.C.936年で紀元1088年。

 イギリスでさえ1066年の建国ですから、紀元958年。

 アメリカ合衆国の誕生は1776年ですから、紀元248年。

 中華人民共和国に至っては、1949年の建国ですから、紀元75年。中国に単一国家として4,000年の歴史はありません。支配民族がずいぶん入れ替わっています。

 確かに日本国の紀元は、真実かどうかは分かりません。然し、国体としては事実です…と、竹田恒泰氏は言われました。成程。日本書紀も古事記も、真実ではないでしょうが、国家、国民の事実です。

 釈迦は、仏典を残していません。仏教に帰依した聖者達が為したのが経本…法華経だろうが、般若心経だろうが、釈迦以後の人々の創作です。然し、仏教徒にとって釈迦と経典は、真実ではないかも知れないものの、事実です。

 神社を詣でるときの二拝二拍手一拝も本来は神官が為す作法で、庶民に広まったのは戦後なのが真実ですが、これが一般の参拝作法であることは既成事実になっています。恵方巻きなんぞは火をつけたのはコンビニですからね。

 極端に言ってしまえば、人は真実を、自分にとって都合の良い事実に組み換えしてしまう能力を持っているということです。(チャイナが、国境を無視して少しずつ侵略し、自国領土として既成事実化しているのも、同じこと。)

 いずれにせよ、この国に生まれ、この国の国民となり、この国に住まい、この国に守られて迎える建国記念日(紀元節)と言う事実に、国旗を立て国歌を歌うといった禮をするのは、私は当たり前だと思っています。

 この書籍の武術鍛錬と脳波の関係を検討するお手伝いをしましたが、本日、BAB JAPAN社から献本を頂戴しました。

 交差法は武術の一つの極意です。そこに至るには、技術はもとより、その技を繰り出す体の作り方と使い方、更には高度なメンタルレベルの構築が絶対条件になります。

 心技体ですね。

 岡部師範の技、流儀の、更なるご発展を祈念します。