最近、テレビを見ていると(と言ってもほとんどニュースばかりですが)

いわゆる「ら抜き言葉」で話しているのが普通になっており、

それを「テロップ」でひつこく修正しているのが当たり前になって

来ています。

 

例を書くと・・・

「グルメサイトで人気のラーメンがやっと食べれた!」

と話をしている人の会話の「テロップ」は

「グルメサイトで人気のラーメンがやっと食べられた!」

などです。

 

僕は、いまだに、「ら抜き言葉」が気になるので、

少し、調べてみました。

 

もちろん、現在、正しいと言われている日本語の語法(文法)では

「食べられる」であり、「食べれる」は間違いです。

 

       ら抜き言葉

(出典:イラスト素材:ら抜き言葉を話す女の子

 

この「ら抜き言葉」は、文化庁によると・・・

いわゆる「ら抜き言葉」とは可能の意味の「見られる」「来られる」等を

「見れる」「来れる」のように言う言い方のことで、

話し言葉の世界では昭和初期から現れ、

戦後更に増加したものである。

(出典:文化庁「言葉遣いに関すること」)

とありますので、100年近く、このよう誤法が使われているようです。

 

だったら、もう、「ら抜き言葉」を正しい語法とすればいいのに!

とさえ思います。

でも、僕は、ただ聞いているだけで、常に違和感を覚えてしまいます。

 

では、なぜ、「ら抜き言葉」を使うようになったのか?

 

いろいろあるとは思いますが・・・

理由1:「尊敬表現」と「可能表現」の差異がわからない。

例えば・・・

「社長、明日は何時に来られますか?」

と聞かれた場合・・・

「尊敬表現」:「社長、明日は何時にいらっしゃいますか?」

「可能表現」:「社長、明日は何時に来ることができますか?」

の2つの意味はちがうのに、正しい日本語とされる語法では、

どちらも・・・

「社長、明日は何時に来られますか?」

というしかないので・・・

「可能表現」のときだけ「ら」を抜いて、

「何時に来れますか?」とすることで

意味を分かりやすくする使い方がはやったというのは結構説得力が

あると、僕は思っています。

 

すなわち、

「尊敬表現」:「社長、明日は何時に来られますか?」

「可能表現」:「社長、明日は何時に来れますか?」(誤法だけど)

として、紛らわしさをなくした言い方が広がり、

多くの場合、「可能表現」をつかうので、

「来れますか?」のような「ら抜き言葉」言葉が一般化した

という「ら抜き言葉」が多用される理由についての説明です。

 

理由2:五段活用では、「られる」ではなく、「れる」が正しい

五段活用動詞とは、未然形(動詞に「ない」をつけたとき)が

「ア行」の音である動詞:書く・行く・泳ぐ・探す・・・

例えば、五段活用の以下の動詞では・・・

書く:可能表現は「書かれる」(尊敬表現は「お書きになる」)

行く:可能表現は「行かれる」(尊敬表現は「行かれる」でも可)

(注) 結局、五段活用では「れる」で、可能表現と尊敬表現の区別が

   なくなってしまう。実は日本語はこのような同じ表現が

   別の意味を持つことを許す言語であり、それが言葉の意味に深みを

   持たせている(同音異義語)という特性がるので、難しい。

 

でも、上記の難しさを除いても、僕が不思議なのは、

PCで文章を書くのが一般化した今では、

例えば、Mictosoft Wordで

「来れますか?」と打つと、「ら抜き言葉」であるとの注意と

「来られますか?」と修正するよう、勧められます。

この機能が広く利用されている文書では、「ら抜き言葉」が

ほぼ見られません。

 

どうして、話し言葉では、こんなに根強く残るのでしょうか?

 

(注)「ら抜き言葉」詳細

動詞の活用が上一段活用・下一段活用では、「られる」が可能表現となる。

上一段活用・下一段活用:「られる」

               例:上一段活用:着る=>着ない(未然形)=> 着られる(可能表現)

               例:下一段活用:食べる=>食べない(未然形)=> 食べられる(可能表現)

五段活用:「ら」を抜いた「れる」が可能表現となる。

     例:五段活用:書く=>書かない(未然形)=> 書かれる(可能表現)

結局、「ない」をつけたときの動詞の母音が「イ、エ」なら「られる」とは

なんでも「られる」をつけて、おかしければ「れる」でいい気がします。

例:書かられるはおかしいので、書かれる

どうでしょうか?