これまで、仏教の他力本願とキリスト教は

よく似ていることを書いてきました。

例えば、

 

 

でも、実は僕には「仏教」はやはりなじめませんでした。

         仏様

(出典:イラスト素材:仏さま_座姿_カラー

 

その理由を「般若心経」を例に書いておきたいと思います。

早速ですが・・・

 

般若心経:原文(漢文)と読み

             般若心経

(出典:日本仏教学院:仏教ウェブ入門講座:般若心経の和訳、現代語訳

 

般若心経:口語訳

観音菩薩が、六波羅蜜(ろくはらみつ) を実践されている時、

人間の心身を構成している5つのもの

(物質的な肉体、苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)

に固有の実体はないと知らされて、一切の苦しみを解決された。

舎利弗(しゃりほつ)よ。 物質的なものには実体がない
では何もないかというとそうではなく、

因縁が一時的にそろって物質的なものが生じているのだ。


つまり、物質は実体のないものであり、

実体のないものが物質として生じているわけだ。
心身を構成する物質以外の心の4つの働き

(苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)もまた同じである。

舎利弗よ、一切が空であるすがたというものは、

因縁がそろったり離れたりするだけで、
無から有が生じたり、有ったものがなくなったりしているわけではない。
汚れているとか清らかというのも因縁によるもので、

汚れた実体や清らかな実体というものもない。
因縁がそろったり離れたりしているだけで、

何かが増えたり減ったりしているのでもない。

だから、すべては因縁によって生じている空なるものだから、

今あると思っている物質も、因縁が離れればなくなって、

別のものになってしまう。
今あると思っている

苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体という心の4つの働きも、

因縁が離れればなくなって、別のものになってしまう。
認識の働きも、認識の対象も、認識の主体も、実体がない。

十二因縁の最初の無明にも実体がなく、

無明が尽きるということも実体がない。
そこから始まって、十二因縁の最後の老死に至るまで実体がないし、

老死が尽きることにも実体がない。
十二因縁のすべてに実体がないし、

十二因縁が尽きることにも実体がないのである。

また、苦集滅道の四聖諦ししょうたいにも実体はない。

このように言うと、般若の智慧というのは、

「一切が空ということだ」と思うだろうが、

そのように頭で理解するようなものではない。
なぜなら何かを知ったり、得たりする私にも実体はないし、

得る対象にも実体がないのだ。

菩薩は六波羅蜜を実践して高い悟りを開くとそのような境地に至り、

心に煩悩がなくなる。
煩悩がなくなるから、恐怖がなくなる。
一切の逆立ちした考えも、妄想も離れて、究極の涅槃に入る。
過去、現在、未来の一切の仏も、そのように六波羅蜜

によって仏のさとりを開かれたのである。

だから知るがよい。
この彼岸に渡る智慧の、不可思議なまことの言葉、
明らかなまことの言葉、この上ないまことの言葉、
並ぶもののないまことの言葉を。


六波羅蜜を実践し、彼岸に至る智慧を完成すれば、

自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができる。

この故に智慧の完成のまことの言葉を説こう。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

(ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)


この意味は、

「仏道を求め、完成して、彼岸へ至り、仏のさとりを得た」

ということである。

(出典:日本仏教学院:仏教ウェブ入門講座:般若心経の和訳、現代語訳

 

もちろん、僕は仏教を極めたわけではないので、

あくまで私見ですが、

の経典の内容を何とかわかろうとしましたが・・・

 

僕には

どうしても「悟り=達観=あきらめ」

としか思えませんでした。

 

色即是空:物質的なもの(色)は実体をもたない(空)

空即是色:実体をもたない(空)ものでも物質的なもの(色)として存在する

すなわち:

「種々のものは空で実体はないんだから、それに惑わされるな!」

そういう考え方もできるかも知れませんが、実際生きていると、

「喜怒哀楽」「愛憎」は実感としてあり、それが人の素直な姿だと

思えます。

 

また、仏教では、「煩悩:心を煩わし、身を悩ます心の働き」を

強調し、それが悪いことのように語られます。

 

でも、僕は、

以下の記事で書いたように、

「つらいこと、いやなこと・悲しいこと」を経験するからこそ、

他人(ひと)の苦しみなどを理解できるのだと前向きにとらえています。

 

人生には

「すべて意味があり、それは、人が深い愛情を知るためのもの」

であるとぼくは思っています。

 

「この世は神が造られたのだからすべて善である」

という信念を持っていた

トマス・アクィナス(以下の記事参照)のほうが前向きで、

なじめます。

 

だから、僕はキリスト教の信者になりました。

 

最後になりますが、

僕は、決して「仏教」をはじめ、如何なる宗教も排斥したいとは

思っていません。

 

ただ、僕は「キリスト教が最もしっくりくる」と思っているだけです。