今日は、

「何かを誰かにするとき~ボランティア・介護の心得~」

すなわち、

僕がどんな気持ちで、「ボランティア・介護」をしてきたか

について書きます。

 

まず、いつも、心に浮かぶ聖書の言葉かあります。

====マタイによる福音書:6章19~21節===

19:「あなたがたは地上に富を積んではならない。

     そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、

     また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
20:富は、天に積みなさい。

   そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、

   また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 
21:あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

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これと同じように浮かぶ聖書の言葉かあります。

====マタイによる福音書:6章1~4節===

 1:「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。

   さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 2:だから、あなたは施しをするときには、

  偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、

  自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。

  はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 
 3:施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 
 4:あなたの施しを人目につかせないためである。

 そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

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実際、「ボランティア・介護」の際に、

「ほら、こんなことをあなたにしていますよ」

というのが、ハンディのある方に見えてしまうと、

彼らは、「申し訳ない」という気持ちを持つだけではなく、

「こんなこともできないなんて」と自分を情けないと思ってしまいます。

       介護

(出典:イラスト素材:在宅介護・老母の介護

 

 

だから、何かを誰かにするときは、

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」

というくらい注意すべきなのです。

 

そのために、兄妹や裁判所が

「あなたが、父母を介護した証拠はない」

と言って、僕の介護の行為を完全否定しましたが、

僕は、そうなるのでは?と思ってもいました。

 

だって、僕は、

「介護・介助される人の想いを大切にしたので」

「右の手のしていることを左の手に知らせてない」

ように、注意を払っていましたから・・・

 

兄妹は「ボランティアや介護の経験がなく」

おそらく「裁判官もボランティアや介護の経験がないんだ」

と思います。

 

僕は、兄妹より、

人の人生の正しさを審判する裁判官が

「裁判官もボランティアや介護の経験がない」からと言って

正しく「法と証拠」をもとに、正しい判決を出せないとすれば、

彼は、裁判官でいていいのか?

という疑問は持っています。

 

また、残存する父の通帳の入出金記録のどこにも、

「食費・被服費・家電購入費の支出がない」

すなわち、記載がないことに目がいかないのは

裁判官として、あまりに不適格だと思います。

裁判官は、支出がないとしても誰が出したか?

いくら出したか?わからないんだから証拠がないとしたのでしょうか?

 

 

技術者は、

自分の知らない物理などの問題を解決する際に

必死に勉強し、その分野の知識が豊富な人に相談したりします。

「僕は知りませんでした」という言い訳は「モノづくり」では

ありえないからです。