私でも出来ることが出来ない奴がいる。

私でも理解できることが理解できない奴がいる。

私でも想像できることが出来ない奴がいる。

さて、そんな奴にレベルを合わせるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

それほど難しい事ではないと私には思えることに、そいつは気づかない。

想像力の乏しさが一番の邪魔になる。

目の前の瞬間に頭がついてこないようだ。

と、言うことは、何も考えていまいのだろう。

言い換えれば、考えられないのだろう、そしてそれは、その程度の頭ということになる。

さて、そんな奴にレベルを合わせる必要があるのか。

 

とても簡単なことだと、私は思う。

ましてや大人と呼ばれる年齢なら、出来ないわけはない、でも、出来ない奴がいる。

やらないのだろう。

中には出来ないことを自慢する低劣がいる。

簡単なことが出来ないのにそれを恥ずかしく感じない奴がいる。

なかなかなもんだ。

出来なくても平気なんだから。

 

いつも距離を置いて見ていると、不思議な感覚になる。

あいつ、あんなことも出来ないのへらへら笑っている。

なんだか、ゾッとする。

見栄がないのか羞恥心がないのか、羞恥心を知らないのか。

多分、知らないのだろう、難しい言葉は苦手なのかもしれない。

出来ないことが自慢できる神経は並大抵ではない、しかも、いい歳をした大人が。

 

なぜかしら、そういう奴はよく喋る。

勿論よく言い訳する、自分を正当化するためによく喋る。

その姿が尚更、哀れに見えるが、当人は絶対そんなことは感じていない、なせなら、毎日同じことを繰り返すから、繰り返しているから。

余計なことはよく喋る、余計な動き、余計な気遣い、余計な判断、余計が大好き、そして、的には当たらない。

余計なことはイコール、無駄なこと、そいつを見ているとよく分かる。

やっていることが、全てにズレているから。

 

私が特別な訳じゃない、誰にでも出来ることだと思う、でも、もしかしたらそいつだけ、出来ないのかもしれない。

気の毒な奴なのかもしれない。

可哀そうなのかもしれない。

そんな奴に多くを求めてはいけないと誰かに言われそう。

出来ないのだから求めてはいけないと、勿論、期待しても無駄だ。

できないのだから。

 

出来ないことを恥ずかしいなんて思わない人間になりたかった。

出来ないことを出来るようになりたいと思う人間には、ならない方がいい。

恥ずかしいとは思わない、自分が他人より劣っていても恥ずかしいことではない、だから、羞恥心は捨てた方がいい。

そして、向上心も捨てた方がいい。

出来なくてもいい、何度やっても進歩がない、それでいい。

バカが賢くなる必要はない、そのことを恥じなければ賢さは無駄なものだから。

 

しかし、ついつい、やろうとするのが私の悪い癖、出来ないことが恥ずかしいと思うのは私の悪い癖。

進歩がないと自分が愚かになっていく気がするのも、私の悪い癖。

あんな風になりたくないと思うのも悪い癖。

悪い癖ほど、直せない。

自分の中に君臨する意識は、なかなか、融通が利かないものだ。