窪美澄『晴天の迷いクジラ』 | 空想俳人日記

窪美澄『晴天の迷いクジラ』

 前に窪美澄の作家デビュー作『ふがいない僕は空を見た』を読んだ。ぐいぐい牽き込まれる世界に、正直圧倒した。
 そんな彼女の2作目がこれ、『晴天の迷いクジラ』だ。

デザイン会社に勤める由人は、失恋と激務でうつを発症した。社長の野乃花は、潰れゆく会社とともに人生を終わらせる決意をした。死を選ぶ前にと、湾に迷い込んだクジラを見に南の半島へ向かった二人は、道中、女子高生の正子を拾う。母との関係で心を壊した彼女もまた、生きることを止めようとしていた――。苛烈な生と、その果ての希望を鮮やかに描き出す長編。山田風太郎賞受賞作。


窪美澄『晴天の迷いクジラ』01 窪美澄『晴天の迷いクジラ』02 窪美澄『晴天の迷いクジラ』03

 このデザイン会社に勤める由人と社長の野乃花の話は、第1章と第2章で語られるのだが、やけにボクにとってはリアルなのだ。大学を卒業して3か月勤めた会社を辞めて、その後突入した会社は、広告制作会社。同じ境遇なのだ。20代は、そんな会社も、ここに書かれているような倒産劇もあり、その後、フリーもしたり、いろいろローリングストーンズだったボクも、既に25で結婚しており、30で子どもも出来たので、いい加減腰を据えんといかんと言いながら、新たに勤めた会社も広告制作会社で、ただ、この小説に書かれている新人デザイナー由人とは異なり、その会社では、有能なコピーライターもいなかったので、コピーライターと、あと、仕事を企画で勝ち取るプランナー(のふりをして)として入社。四半世紀で取締役まで行った。なので、ここに書かれているデザイン会社に勤める由人と社長の野乃花の話は、身につまされる思いで読んだ。
 それは、主に、第1章と第2章である。

窪美澄『晴天の迷いクジラ』04

第1章 ソラナックスルボックス
 章のタイトルは、ピンと来ない人が多いと思うが、多少うつ病の由人が宮崎駿似の石から処方されたソラナックスとルボックスという薬だ。
 この章では、由人が主人公だ。日々、デザイン会社での仕事が危うくなっていく話。単価も下がり、昼も夜も仕事仕事。そんな彼の生い立ちもキチンを描かれている。母親から愛された病弱で頭のいい兄、15で子どもを生んでしまう妹、その二人を愛する母。唯一、母からは愛されない由人は、唯一の負けの父親チーム。そんな父親から、東京へ行けと。
 この章の最後は、勤めた会社も、もう終わりだ、倒産だ、そんな状況でも他に転職できそうにない彼は、「もう生きるのやめよかな」と。そして、会社にある自分の持ち物を整理しに行くとばったり会う。社長の野乃花だ。

第2章 表現系の可塑性
 1章で由人が倒産寸前の会社に行った時に会った社長、野乃花が主人公として語られる。もちろん、由人と同様、生れたときからの話も。父が漁師で母が魚加工工場。そんな貧乏人の彼女は、類まれな絵描きの才能。学校の先生が彼女の才能を見抜き、ある昔世話をした議員の息子の絵画教室を紹介する。絵画教室でもずば抜けた才能。教室の先生は、彼女だけを「合格」と。しかも、授業料もいらない。そのかわり絵のモデルになって、と。そうして、彼女は裸体になるのだが、そこから始まる恋愛関係。子どもができてしまう。
 その子供を逆手に、親が逆襲。あっという間に、絵画の先生の親である議員さんに「うちの嫁に」と。ところがどっこい、生れた子はなつかない。離乳食も、他の人が与えれば喜ぶのに、自分が与えると泣き叫ぶ。
 子どもが子どもを育てる。それが嫌で、東京へ逃げる。デザイン会社を通じて、デザイン会社を設立。
 そうして、そこに由人が入社するのだ。
 間、飛ばして、1章でのラスト、由人は、会社で、自殺を練炭で図ろうとする社長の野乃花に会う。お互い、死のうとしている。でも、テレビで、ある県の湾に迷いこんだクジラを見て、死ぬ前に、そのクジラを観に行こうと提案する。
 間違いないが、この湾があるのは、鹿児島だと思う。そして、それが野乃花の故郷だ。

第3章 ソーダアイスの夏休み
 ここで、これまで登場していない正子と、その家族が登場する。この章には、今の子どもたちが親が無菌状態で子どもを育てようとする残酷な場面も描かれている。今子育て中の親御さんは、是非読むべきだ。
 この章が重要なのは、いきなり、前々章や前章とは関係がない正子とその家族が登場するが、正子の姉が赤ちゃんの時に死んだこと、彼女が母親といるときには味わえない友達と二時間、そして、その双子の一人が亡くなること、そうした中で、彼女がリストカットしたり生きる気力を亡くして彷徨っている時に、クジラを見に来た由人が運転する車の助手席の野乃花に、「一緒にクジラ見に行かない」と誘われるのだ。
 最後の場面で繋がった後、第4章が大切だ。

第4章 迷いクジラのいる夕景
 由人、野乃花、正子、みんな死にたがっている人たちが、死に際かもしれないクジラを見る。ここで、登場するクジラ博士は、重要だよ。
 湾に迷い込むとは、クジラが泳ぐのに重要な骨伝導による聴こえ、耳が聞こえないと、海と陸の先も分からない、そういうクジラは死にゆく運命だ、と。それが世人の摂理だと。それを人間は、無理して生かそうとする。生かそうとしなくても、死んだクジラは、たくさんの海の生物の餌などに役に立ってるんだ、と。
 ふと、新美南吉の詩『島(B)』を思い出した。

 あと、『地球星歌』の歌詞「♪あなたがひとり見上げる月を遠い海のクジラが見つめ返している♪」も思い出した。
 これなんか、人間ができる限り長生きさせて長寿だと喜んでいることへの大いなる警鐘でもあると思う。クジラはかつて地上で生きていた。でも、海で生きることを選んだ。地上で生きるホモ・サピエンスが嫌いなのかもしれない。
 この章は、これまでの章に対して、由人、野乃花、正子が交互に主人公になって語られる。そこへ、泊めてくれてる役場の人のおばあちゃんがいい役をしている。これも、映画にしたらいい作品になると思うなあ。
 そして、最後は、クジラ博士が、「もうだめだな」と予想してたことに反して、クジラは湾を出ていく。どんなに先が短くても、生きようとする。由人、野乃花、正子も、まさしく同じ気持ちだ。
 誰だって、どんな生き物だって、いつかは死ぬのだけど、それまで頑張って生きようとする、そんな三人が浮かび上がって、この物語は終わった。
 おもわず、拍手である。

 哲学・心理学、社会学や政治学、新書本を読むとスッキリする。ところが小説を読むとそんなもんで解決できないドロドロ世界に夢中になる。それが今『晴天の迷いクジラ』だ。
 いつも思う。こういったフィクションには、旧約聖書や新約聖書、マホメド聖典なんかでは表されていない人間の心理、悩みや葛藤が表現されている。今の時代、神や仏よりも、こうしたフィクションから学ぶことが多いのではないかな、そう思う。


窪美澄『晴天の迷いクジラ』 posted by (C)shisyun


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