宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」図録 | 空想俳人日記

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」図録

 これは、宮沢賢治生誕100年記念を記念して一宮市博物館で開催された「宮沢賢治生誕100年記念『賢治・志功・一英』の図録である。実は、AMI、「第32回まちの宮市なまおとライブ」のあとに、一宮市博物館で棟方志功生誕120年記念「版画芸術」を観たんだけど、過去の関連展覧会として、宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」図録を売っていたのね。ぺらぺら捲れば、こちらのが興味津々。思わず手に入れた。

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」01 宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」02 宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」03

 時代は20世紀の展覧会。その時の図録が買えるのもいいねえ。

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」04

 で、今回は、日本の版画家として大好きな棟方志功。それに、まったく知らなかった一英。

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」05

 一英の「大和し美し」作品を彫った志功の版画は見ものだったけど、1996年に、この「賢治・志功・一英」という展覧会をやってたのよ。一英を全然知らなかったけど、それが引き金に、志功・一英が繋がり、賢治・一英にもつながっていく。

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」06

 この図録で作品展示を想像することも楽しいけれど、後半に書かれているお二人の文章に、「あああ、そうかあ、そうなんだあ」って思いましたよ。

宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」07

 ちょっと引用します。鍵は佐藤一英が「純粋童話! 詩的童話!」を提唱して発刊した『児童文学』。
 まずは、西田良子氏から。
《教職を追われた一英は、文教書院から依頼された子どものための古典解釈『新訳平家物語読本』「新訳太平記物語読本』『新訳保元平治物語読本』の三冊を出版したが、子ども向きの文章を書きながら、彼は子どもの本の文章の粗雑さに驚いた。1918(大正7)年7月に創刊された雑誌「赤い鳥」の主宰者鈴木三重吉も、発刊に際して配布した宣伝文で「その書き表はし方も甚だ下卑てゐて、こんなものが直ぐに子供の品性や趣味や文章なりに影響するのかと思ふとまことに、にがにがしい感じがいたします。(中略)作文のお手本としてのみでも、この『赤い鳥』全体の文章を提示したいと祈っています。」と書いているが、一英もまた同じ嘆きを感じつつ、文学的香り高い文章で書かれた児童文学を世に送ろうと考えた。》
 佐藤一英の『児童文学』も鈴木三重吉の『赤い鳥』も同じ志から生まれたものなのだ。
 当時の宮沢賢治は1928年(昭和3年)から2年間の病床生活からようやく立ち直って働き始めたが、創作への意欲は消えずにいた(まだまだ無名だった)。そんな折に、この『児童文学』に作品発表するチャンスを得て、未完成だった作品に手を加えて発表したのが「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』第一冊、1931年・昭和6年)と「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』第二冊、1932年・昭和7年)だ。「グスコーブドリの伝記」には棟方志功による挿絵も。第三冊には「風の又三郎」を掲載する予定だったが、第三冊は金銭的理由で発刊されなかった。
 ということで、もし一英が『児童文学』を発刊していなければ、宮沢賢治に依頼してなければ、今日の宮沢賢治はなかったかもしれない。
 続いて、保永貞夫氏の文章から。
《注目すべきは1931年(昭和6年)7月に刊行された『児童文学』第一擦の編集後記である。ここで一英は、当時の児童文学界および出版界を風靡していた強化主義的童話、プロレタリア童話を全面的に否定し、「純粋童話! 詩的童話!」を声高く提唱している。》
《この年、長らく休刊していた児童文芸誌『赤い鳥』が復刊された。だが、秋田雨雀、芥川龍之介、有島武郎、小川未明、島崎藤村、北原白秋、西条八十らが多くの名作を生み、坪田譲二、辰巳聖歌、与田準一、佐藤義美らを育て、近代童話・童謡の確立に大きな功績をはたした第一期にくらべ、その活力は衰えていた。この第二期では新美南吉、平塚武治ら新人の発掘に力をそそぎ、それなりの意義はあったものの、時代の風潮もあって、二年後には終刊への道をたどる。》
 時代は、プロレタリア児童文学だったが、質的には公式主義をぬけきれず、傑出した作品は生まれていない。
 通俗大衆児童雑誌(『日本少年』や『少年倶楽部』など)が最盛期で、『赤い鳥』を意識した『金の船』『童話』『おとぎの世界』などは姿を消していった。
 時代も大きな転換期を迎えていたのだ。ただ、この現代、当時の文学者、童話作家、詩人と言えば、『赤い鳥』や『児童文学』に掲載された作家たちが今も輝いてボクたちの文学心を擽り続けている。「純粋童話! 詩的童話!」がいかに不変で永遠かを物語っているのではなかろうか。
 ちなみに『赤い鳥』第二期で発掘された新美南吉について語っておこう。先ほど、「もし一英が『児童文学』を発刊していなければ、宮沢賢治に依頼してなければ、今日の宮沢賢治はなかったかもしれない」と書いたが、同じように、『赤い鳥』で詩人として北原白秋に認められ、童話作家として鈴木三重吉に認められることがなかったら、今日の新美南吉はなかったかもしれない」ということ。
 南吉よりも賢治のが17ほど年上だが、ちょうど同じ1931年(昭和6年)、賢治は『児童文学』に、南吉は『赤い鳥』に、この運命の出会いが、二人のその後を決定づけたのではなかろうか。


宮沢賢治生誕100年記念「賢治・志功・一英」 posted by (C)shisyun


人気ブログランキング