大江健三郎『親密な手紙』 | 空想俳人日記

大江健三郎『親密な手紙』

 本年最後の大江氏を読む、という感じかな。これ、2023年10月に出たばかり。

大江健三郎『親密な手紙』01 大江健三郎『親密な手紙』02 大江健三郎『親密な手紙』03

 雑誌『図書』に2010年から2013年に掲載されたもの。

大江健三郎『親密な手紙』04

「困難な時のための」
 サイード氏のことは『大江健三郎作家自身を語る』の第二章に書かれてたし、最後の小説『晩年様式集』のタイトルは、サイード氏の最後の著『On Late Style: Music and Literature against the Grain,「晩年のスタイル」』から付けられたと思うので、ここに書かれていることは痛く分かる。

「人間を慰めることこそ」
 伊丹万作(映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。伊丹十三の父)が戦後すぐ、その死の直前に発表したエッセイの中の言葉が凄い。
《……だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。》
 これ、今の時代に当てはまる。

「新訳に誘われて」
 ボクがサルトルの『嘔吐』を読んだのは、確か高校生の頃だったと思う。原書でなく、翻訳本である。フランス語を学んだのは大学へ入ってからだ。とはいえ、大学でフランス語を学んでも、授業以外で原書を紐解いたことは、断言するが、ない!

「ナンボナンデモ」
 確かに「いくらなんでも」と書き換えられたら、ニュアンスが変わる。「いくらなんでも」では、文字通りの意を汲んでしまう。「ナンボナンデモ」は、そうじゃなく、驚嘆というか、嘆き、悲痛、そうした感情的世界が強いのだ。「もうどういうことなんじゃ」に近い。

大江健三郎『親密な手紙』05

「衿子さんの不思議」
 岸田衿子さんの父は岸田國士だが岸田今日子さんと姉妹でもあられる。渡辺一夫著『狂気についてなど』を下さったそうだ。
《「狂気なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られます。それはうそであります。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴ひます。》を《「原発」の電気エネルギーなしでは、偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られます。それはうそであります。原子力によるエネルギーは、必ず荒廃と犠牲を伴ひます。》と大江氏は読み更えたそうだが、先生は「それはうそであります」を「私は、そうは思いません」にしたそうだ。でも、それでは、単に主観でしかなく、客観性がなくなってしまう。大江氏はあえて「それはうそであります」を使った。

「伊丹十三の声」
《かれは先の、テレビで豊かに話をされた友人たちとの付き合いに私を参加させることはなく、私のかち得ていた友人たちに私が引き合わせようとするのを拒否した。それぞれ面白い出会いになったはずなのに。それが今もフシギなのだ。》
 おそらく、伊丹氏は、大江氏との唯一無二の特別な関係を死守したかったのではなかろうか。

「希望正如上的路」
 魯迅の「希望」についての言葉。
《希望は、もともとあるものとも、ないものとも言えない。/それはまさに地上の路のようなものだ。/本来、地上に路はなく、歩く人が増えれば、そこが路にあるのである。》
 その通りだ。
《私は、反原発の世論が圧倒的であるのに(原発がある自治体、経済界、米国に配慮して、という)政府の無視が次つぎにあきらかとなるなかでのデモにいた。》
 政府は、誰のためにあるのだろう。

「もぐらが頭を出す」
 ボクも安部公房研究『もぐら通信』を知っている。ボクの場合は、ネットで知ったのだが。そして、それを真似て、一時期ネット上に『笑月流公房倶楽部』なるコーナーで、安部公房のことを書いてた。
 大江氏が安部氏を高く評価してたが、一時期絶縁状態だったということはあまり知らなかった。安部夫人から、ルポルタージュに走る安部氏を「小説家なんだから」と説得してくれるように頼まれたなんてことも、知らなかった。『燃えつきた地図』がその結実のようだ。
《シュールリアリズムから記録的方法への移行ということは、それぞれの本質からいって、極めて自然な、そして必然的なことなのである。》という安部氏に対し、仲直りをした大江氏は、
《安部さんはその移行に加え、そこからの帰還にも、美事に成功してゐられた。》と評価する。ここの、「美事」は「見事」ではなく、あえて「美事」なのかな?

「同じ町内の」
 ベアテ・シロタ・ゴードンさんのことは、樹村みのりの漫画『冬の蕾⭐ベアテ・シロタと女性の権利』で知った。日本国憲法草案の平和条項と女性の地位向上に積極的な働きをされた方だ。

「鐘をお突き下されませ」
 バルザックの『艶笑滑稽譚』(岩波文庫)を知らないが、
《其れを見て取り勇み立った相手のおぼこ娘は、暫くあって己が身に跨る乗り手に言った。「殿、わたしの見ますところ、既にきちんと納まられたご様子。斯くなる上はもう少し力を込めて鐘をお突き下されませ」》
 笑えた。文章の妙である。

大江健三郎『親密な手紙』06

「偶然のリアリティー」
 ボクは、フランシス・ベーコンの画集を持っている(はずだ。どの書棚にあるかがわからない)。「胸に突き刺さるような」絵。彼のインタビューから。
《絵画にはもう自然主義的なリアリズムなどありえないのですから、新たなリアリズムを創造して、神経組織に直接伝わるようなリアリティーを表現すべきなのです。でも、偶然に浮かんだイメージのほうがたいてい、あるいは必ずといっていいぐらいリアルなのは、わかる人がいるでしょうか。》
《私が偶然と呼んでいる現象によって、特別リアルで純粋だと思える跡がカンヴァスにつくことはありますけれども、ほかの跡と比較してそれを選ぶことができるのは、批評的な精神だけです。(中略)非常に無意識的な作業をしながら同時に批評能力を働かせているのです。》
 偶然という訳の原語accidentから、大江氏は、長男が頭部に畸形を持って生まれたこと、そして、それによりリアルな、『個人的体験』を書いた。

「実際的な批評」
 試着室から出てこない女性の物語。どれも気に入らない。近くの他店からも仕入れてくる。それでも決まらない。
《とうとう試着室ごと他の洋服屋に連れて行くことにした。(中略)タイヤ付で移動ができるようになっていることを思い出したのだ。》
 試着室は坂の頂点で転がりはじめ、小さくなる。
《カーテンの隙間から突き出た手が、まるで車の窓からさよならするみたいにいつまでも大きく私に向かって振られていた。》
 笑える。が、大江氏も笑いながら、以後ごちが悪い、と。他人事でなく、作品の手直しを始めたら止まらない大江氏と忍耐強く待ってくれてる編集者に置き換えられるから、とな。なるほど。


大江健三郎『親密な手紙』 posted by (C)shisyun

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