実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 | 空想俳人日記

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

体制工場 お見事製品 金太郎飴



 この「実録・連合赤軍」という作品、若者たちが何に突き動かされ、どのような葛藤を経て「あさま山荘」へと至ったかを、内部に視点を、徹底検証していく実録ドラマ。故に真摯に冷静に受け止めたい映画。であるのは山々だが、いかんせん、私は。感情逆撫で揺さぶる。まず腹立たしいのは、永田洋子と森恒夫。いきなり個人攻撃かよ。でも、仕方がない。
 日米安保条約や三里塚、大学の使途不明金問題など、そうした外的要因から学生運動が大きな盛り上がりを見せた60年代だったわけである。そうして革命を旗印に、運動は次第に過激化し、逮捕者も相次いでいく中、71年、先鋭化した若者たちによって連合赤軍が結成されたのだ。
 ところが、いつのまにか外へのベクトルが形骸化し、内部の仲間たちへの自らを共産化することと絶えず総括という名の反省(リンチ)を強いる集団になってしまった。外に目が向けられないイコール実は既に八方塞なのであり、指導者はいかに内部を統率するかに走る。狂人的奔走。そして指導者である森恒夫の総括弁論大会と、側近の永田洋子による内部告発の毎日。
 私の腹立ちは、この通り。おい、お二人さんこそ、総括しろよ。特に、森さんよ、いったん運動から退いたんだろ。その時のこと、きちんと総括しろよ。それが出来てないから、指導者として誤った道にみんなを引っ張ることになるし、永田との私利私欲に溺れる羽目に陥るんだよ。最も共産化できていないのは、あんただよ。
 とまあ、こんなふう。どうして、仲間たちの中から、こういう声が沸き起こらなかったのだろうか。ま、それは、肝心クライマックス、あさま山荘事件の中で加藤三兄弟の末っ子が、吉野や坂口ら幹部クラスの「落とし前をつけよう」という言葉に対して、やっとのこと仲間に向けて発する魂の叫びを待たねばならないんだね。残念だが。この魂の叫び、仲間たちはみんな分かっていたはずだ。なのに何故出来なかった。
 こうした指導者になる者たちってのは、どうも口の立つ奴が多い、と言う傾向がある。こら、社会人で会社組織に入っている人たちなら分かるであろう。指導する人たちって、なんだかんだ言いながら、いつの間にか正しい弁舌に思えてきて、みんなを言い包められる、そんなパワーを持っている。
 確かに、森恒夫の何でも「総括」を私たち観客が端から見ていると赤軍派結成当時の思想は形骸化しており、コトバは空を舞っている。しかし、同じ生命体と思い込んでいる者たちには反論できないのだ。志はあったはずなのに、口が立たないのだ。しかも逃げ出せずについていくしかない。その結果は・・・、展望なき総括。遠山美枝子演じる坂井真紀の顔を直視したい。とにかく、世の中、口が立つ奴が人の上に立つ。政治家さんを見なさりませ。
 体制に立つ指導者、反体制に立つ指導者、立場が違えど、絶えず総括と展望を推進せざるを得ないし、その際、あたかも皆を雲に巻き、黙らせることのできる弁舌の達人でなければならない。ただ、こと社会における体制からすれば反体制は極めてアウトサイダー、その意志の強靭さは問われるだろう。
 しかし、どちらにも加わりたくない、加われない、そういう人々が恐らく絶対多数なのだ。そして彼らも口を閉ざす。ほら、あさま山荘での人質(立てこもった連中から言わしめれば決して人質ではないのだろうが)の管理人役の奥貫薫が条件提示をする。裁判になったとき、絶対に証言に呼ばないで」と。これが多くの人々なのだ。私もそうかもしれない。そして、体制と反体制があるとすれば、こうした口を閉ざす人々の存在は、基本的には体制に対して寄らば大樹の陰の群れを作る。
 戦争に敗れた日本は、アメリカの植民地になることは免れた。しかも資本主義国家を急速に築きあげ、GNP世界第2位などというポジションにも着いたけれど、それはけっして自力で行ってきたわけでない。すべてアメリカの戦略のもとに、アジアの強国となりアメリカの同盟国、いやアメリカの手足、前線基地化という道を歩んできたのだ。
 実は、この連合赤軍の映画の背景には、今日のアメリカ同盟国としての日本の道が着実に積み重ねられてきたことを描いていると言ってもいい。そして、それに反発した反体制を駆逐してきた戦後の歴史であるといっても過言ではない。勘違いしてはいけない、今日のアメリカとの関係は何も今に始まったことではないのだ。
 それにしても、腹立たしいのは、夢破れて山河あり、ではないが、志を決意して学生運動に参加しながら、ある意味ではアメリカ産日本に叩かれた人々が、結局は今のアメリカ同盟国推進の体制側に回ってしまっている現実も見逃せない。彼らは、この映画を観て何を思うのだろうか。
 そして、もっと言えば、当時こうした志を持って活動した学生と比べ、いつのまにかアメリカ産日本という体制工場の生産ラインの中で生まれてきた後々の子どもたちが、今の世の中を当たり前と納得し、アメリカ主体の世界戦争の手足の役割を日本が担うことになっても何も不思議とは思わないであろう人物に教育(飼育ともいう)されてきてしまったこと、これも本来は悲しむべきことなのかも知れない。 
 ということで、真摯に冷静に受け止めたい映画なのに、腹立たしく、あるいは悲しむべく、また憂うべく、そんな見方しかできなかった自分であるが故、感想などおこがましいな、とは思いつつも、こうして書いてきてしまった。数々の苦言をお許しくだされ。
 最後に、連合赤軍の成り立ちの契機を確認された方々へ、もし新興宗教やカルト集団と何も変わらないとして見えるとすれば、日本という国がいつのまにかそうした者たちを十把ひとからげに押し込めて論じる国になってしまったからであることを理解していただきたい。そう見えるのは、大多数の人が体制の寄らば大樹の陰で口を閉ざして日本という国で安泰に生きてきたからだ、そう自分自身も総括もどきに省みながら、中途半端だけれど、ここで筆を置きたい。若松監督に感謝と陳謝。