蟲師(むしし) | 空想俳人日記

蟲師(むしし)

そういえば 虫の報せを 聞いていた 



 うむ、予告で観たときは、それほど観たいとは思わなかった。なのに、私がよくふらふらと映画を見に行くことを知っている友人が「蟲師、始まったよ。行かないの」と言う。私が好きそうな映画、と言わんばかりだ。
 そうか、好きそうな映画か。なら行くか。でも・・・。まだ躊躇された。実際、映画館のチケット売り場の前でも臆病風が吹いてた。というのも、文字で「蟲師」と書けば、例えば看護師とか整体師とか、そんな類と想像できるが、この文字を発音すると「むしし」だ。私は「うしし」と聞こえるんではないだろうか。そんな臆病風にかかっていた。実際にチケット売り場で映画のタイトルを言い終えた後も、売り場のお姉さんは「うっしっし~」と聞こえたのではないだろうか、などといつまでも気にしていたのである。
 しかし、映画館で映画を観るのはいい、あたりが真っ暗になる。もちろん常闇までは行かないが、映画の世界に浸らされてくる。しかも、上映中何度も席を立つ人間は鬱陶しいのだが、今回足が少し弱っているお年より風な陰が行ったり来たり。蟲師に身体を診てもらいに来たんだ、そう確信した。
 ところで、かつていらなくなった電気製品の部品をゴミから集めてきて虫の立体イラストを作っていたイラストレーターとお付き合いがあった。キャッチフレーズに「虫の報せ」とか「未来予報」とかつけて売り出したりした。彼は今どうしてるんだろう。世の中に電気というものが広まって日本の何処へ行ってもまったくの暗闇、常闇がなくなってしまった現代。もう虫の報せなど聞こえなくなってしまったかもしれない。でも、ガラクタ化した電気製品の廃物利用で虫を作って、虫の報せを聞こうなんて、洒落ていたね。
 この「蟲師」、そんなことを思い起こさせてくれた故、「蓼食う虫も好きずき」かもしれないが、私にはテーマ性も理解できたと思い込んでいるし共感もできた属性である。オダギリジョー演じる主人公ギンコと、ともに旅する虹郎(大森南朋)とが、山の頂から、電気が来ている麓の村を見て会話する。そのときのギンコの言葉は、その後、相棒の虹郎と分かれ、かつての育ての母ぬい(江角マキ子)を救い、いずこかへ消えていく運命を予感していたのであろう、と。オール電化バンザイの現代では明らかに「蟲師」は生きられないね。そのバンザイがヒットラー・バンザイでなければいいね。
 それにしても、静かな、ほんとに闇の声しか聞こえないような映画であった。もちろん、あの「アキラ」の大友克洋監督ということだから、はじめは最近流行の時代物にもっと輪をかけたSFアクションドラマ展開を期待した。そして、その期待は裏切られた。しかし、だから、つまんない、などと安直には思わない。その予想を裏切ってくれた散文詩的ノスタルジックファンタジーは、むしろ物語性よりも映像詩と思えばいい。そして、最近「虫の居どころが悪い」毎日の私に「虫のいい話」を聞かせ見せてくれたわな、そう思った。私にとって、あの常闇が宿る沼は自らの心の闇だとも思えたもの。
 だいたいからして「腹の虫がおさまらない」ような日々、「苦虫をかみつぶす」ような出来事、これらも、誰かのせいにしている自分。でも、そうじゃない、私の中にいる虫のせいかもしれない。それこそ、「虫の居どころ」は私にあるのかもしれない。
 私自身は100年前はまだ生きてはいなかったので、ここに描かれている精霊でも幽霊でも物の怪でもない、妖しき生きもの「蟲」(むし)を直接は知らない。しかし、私は生まれた時から「疳(かん)の虫」持ちだったようで体質が弱かった。「蟲」が引き起こす不可思議な現象を解き明かし、人々を癒し、救う「蟲師」(むしし)がいたら、私が祖母に連れられ通いつめた祈りの場所、ヘチマ大師だったと思う(どんな師であり蟲師みたいな存在であったかはよく知らないが)が、そこへ体質改善のためにお参りに行かなくても済んだかもしれない。
 さらには、幼少期は何事にビクビクした臆病者で、人見知りが原因で「虫が好かない」奴からはいじめられ、「泣き虫」でもあった。学校に上がるとまずは認められたいから、ある時期までは「点取り虫」、でも、ある時からは勉強そっちのけでの「本の虫」になった。中でも手塚治虫の虫は強烈だった。そんなんで、100年前を知らない私の中にも、いまだに虫が巣食っているようだ。
 この映画で、もひとつ興味を抱いた場面は、虫封じのための書。まずはちょっと前観たリチャード・ギア出演の「綴り字のシーズン」、文字が降ってくる。それから随分前に観た「ピーター・グリーナウェイの枕草子」、書家の父から肌に文字を書かれる喜びを教わって育ったナギコの話。そしてそして、あの日本古来の話で小泉八雲の小説「怪談」にも取り上げられている「耳なし芳一」の話。書を身体一面に書き綴ったところ、耳だけ書かなんだ。耳を失うと「虫の報せ」も聞こえなくなるのか。
 さて、「耳なし芳一」の話も蟲の話として書になっているか否かは分からぬが、淡幽を演じる蒼井優から滲み出てくる蟲の話の文字、それを書に写して蟲を封印する。なんとゾクゾクする映像なり。そして、蔵の中一面に飛び散っている書の文字たちを彼女が菜箸で一つ一つ摘み上げ巻物に収めなおすシーン。いやはや美しい。
 私たちは、言葉というか文字というものを、これほど生きたなまめかしくも妖艶な存在としてかつて見たことがあるだろうか。文字とはどうしても理論的な客観的なものに思いがちである。しかし、この映像を見せられて、文字やら言葉というものが現代において、いかに一側面の役割だけしか担わなくなったものか、そういうことが感じられはしないだろうか。そして、実は映画もそうではなかろうか。
 それにしても、ここのところアチコチの映画に出ずっぱりのオダギリジョーもなかなかがんばっておったが、いかんせんまもなく封切られる実写版のウエンツ演じる「ゲゲゲの鬼太郎」と風采がかぶってしまった。
 そういえば、オダギリ出ずっぱりの中で時代物の作品「SHINOBI」っていうのがあったね。あそこでの物語性はチャチかったかもしれないけど、映像はこの映画に近い日本の原風景が映し出されていたかな。それと、脇役、相方の朧を演じる仲間由紀恵でもなく、おどろおどろしい敵方の黒谷友香でもない、ちょい役ではあるが蝶を操る(これも虫ではある)蛍火の沢尻エリカ、私はここに目をつけた。それが、今回の淡幽なのだ。
 そう、こちらも最近よくお見かけでは蒼井優、彼女が演じる淡幽は、本当にいい。彼女からすれば、りりぃや江角マキ子に席を譲った感もある配役ではあるけど、あの息絶え絶えの横顔、それだけでも存在感が感じられるのは何故だ。それは、・・・分からない。でも、不思議だ。不思議なくらいの存在感。ああ、そうであったか、この世の不思議は、きっと「蟲」の仕業かもしれないのであった。そうだ、その理由は「蟲」のせいかもしれない。
 私はこの映画を観に行くだろう、これも日本の原風景に対するノスタルジックな既視感(Deja vu。「デジャヴ」をつい最近観たし)とともに虫の報せがあったのかもしれない。