キレイの法則 | 空想俳人日記

キレイの法則

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ところで、最近の若い娘、みんなキレイだよねえ。
「このスケベおやじが」
おやじがスケベじゃなくなったら、おやじじゃない。スケベ根性がおやじ社会を作り、そこへ若い娘が土足で上がりこんでくる。おやじは、それに腹を立てず、だらしなく鼻の舌を伸ばす。かわりに腹を立てるのは、かつて若い娘だった一族。なんと健全なる社会か。
でも、こんなこと言うと、世界の女性を敵に回すかもしれないが、昔は、きれいな娘もいれば、ぶさいくな娘もいたよね。
「ブス~!」そんな叫び声があちこちで聞かれた。今は聞こえない。ブスもいたし、きれいもいたし、可愛いもいたし、美しいもいたし、恐いもいたし、汚いもいたし、憎たらしいもいたし、なんか、いっぱいいた。
小学校低学年の時、アイウエオ順の並びになるとどうしても私の横に来る女の子がいた。この子も、いろいろいた中の、いろいろを増やす異様な存在だったな。どちらかというと霊長類憎たらしい目だけど、何科か分からない。哺乳類だけど卵を産むカモノハシみたいな存在、でもないな。
そのころは「おててつないで」の歌よろしく、気軽に手を繋ぐ子が多かったが、私には抵抗があった。マイムマイムみたいなフォークダンスやお遊戯では、どうしても手を繋ぐことを強要させられる事態が発生し我慢して手を繋いではいたが、この子と手を繋ぐ時だけは何故か行動に現れた。
「好き好んで手を繋いでいるわけじゃないからな」そういう気持ちの意思表示として、彼女と繋ぐ手に思い切り力をこめた。すると彼女は必ず
「いたい」と言った。そりゃそうだ、痛いようにやってるんだ。あほか。
学年が上がると、クラスからその子は消えた。クラスが変わったのだったろうか。いや、学校から消えた、ように思う。転校したのかもしれない。
他の例を上げ始めると切りがない。小中高大あわせると相当数を列挙しなければならない。枚挙に暇がない。もともと暇がないのに、それではお暇乞いをしなければならない。人権問題になりかねないので一例に留めておくが、とにかく、いろいろいた。
そして、そのいろいろは、写真に収められない種類のものだった。いじめて泣かした子のしわくちゃの顔の醜さが「はっ」とする哀れみの表情を投げかけた時の絵にも画けない美しさ。あちらを向いた能面がこちらに向くと「くしゃっ」となる偉大なる中央集権皺くちゃの充実度。突如えらい剣幕が上がるついでに片眉・片目・片鼻・片唇・片肩を活からせる緞帳顔の絢爛豪華さ。正調鰹節美的表層が「あかんべえ」で見せるおたふく笑いの崩壊感。目から鱗を流しながら目ん玉まで落としかける恐怖の快感。七色仮面や妖怪七変化、さらには怪人二十一面相。いやはや、どれもこれも一枚の写真では捕らえきれない。
なのに比べ、何故に、今の子はみんな可愛やカンカン娘なのだろう。みんなブロマイドのよう。そう、ブロマイドなのだ。アイドル写真と同じ、ブロマイドの顔なのだ。「富士の高嶺に降る雪と京都先斗町に降る雪には変わりなんかない。溶けて流れりゃみんな同じだ」と誰かが言ってたが。ここでの「富士」とは決してフジサンケイグループを名指しするものではない。あしからず。
でも、この暴露は、なんのことはない、当事者であるマスメディアによる自己暴露なのだ。かつて手の届かぬ憧れるしかないアイドル。私たちの存在に限りがあるのに対し永遠でありえたアイドル。それが今では、いつでも私たち自身と交代できることを吐露してしまった。
それを受けて、テレビの中が高嶺の花の存在ではないことを知ってしまった私たちは、いつでも気軽にテレビカメラの前に立ち、友達に向かって「ひゃっほう」などと言う。生放送でなければ、まるで、ホームビデオで録画された映像を家族で楽しむように、テレビに映る自分を見て家族で喜ぶ。
挙句の果てに、例えば、自分を某タレントに仕立て、某タレント交代予備軍になろうとする。某タレントは、高嶺の花でなく、隣のトトロ、例え富士の高嶺だとしても、そこの雪である某タレントと、ここにいる私は、溶けて流れりゃ皆同じ、なので、いつでも私は某タレントに代わって、テレビの中に登場することができる、と。
だから、ちっとも太っていないのに、むしろ標準よりも痩せているのに、さらに痩せようとする。某タレントが基準だから。それに合わせられなければ太っていることになる。で、顔は多少大きくても問題視しない。某タレントと同じくらいだから(失礼)。と、まあ、そういうこと。
みんなキレイな女、可愛い女、みんながブロマイド。某タレント以外にも、それなりにバラエティは出揃っているが、押しなべて、みんなブロマイドの可愛い女。それが現代のキレイの法則なのかな。
「いつでもテレビに出るの、OKよ」と言っている。
「そりゃ、あんたが、店の入り口で壁に貼られたいくつかの若い女の子の写真の前で、どれにしようかな、と見入っている感覚だからよ」
いやいや、それは違う。ありえないが、万が一そうだとしたら、
「いつでもお店に出るの、OKよ」と彼女らは言っているようなものだ。ああ、ほんとに世界の女性を敵に回してしまった。
「昔と比べて、日常の中で女の子と接する機会が疎遠になっているせいだよ。遠巻きから眺めているだけだからわかんないのよ」
ふうむ。なるほど、そうかもしれぬ。もっと日常茶番劇を女の子たちと演じれば、キレイで可愛い女の中にも、美しいブスやコ憎たらしいブスや感動的なブスなど、いろいろな子がいることを知ることができるのだろうか。
よし、ここは、勇気を振り絞って、若い女の子軍団の仲間入りをしてみるか。
「このスケベおやじが」
やめておこう。