手塚治虫「どろろ」 | 空想俳人日記

手塚治虫「どろろ」

どろろって ユニセックスの アトムかも 



 で、「どろろ」であります。「奇子」でもコメントしましたが、実写映画で公開されると言うじゃないですか。とても楽しみ。百鬼丸に妻夫木聡、どろろに柴咲コウ、おもしろそう。
 漫画では、どろろは、まだ小さな子ども。見るからに男の子だけど、後のほうで女の子だってことがわかるんだけど、柴咲コウが演じちゃ、初めからネタバレですよねえ。そこんとこを、どう演じるかもお楽しみですね。
 でも、そんなことよりも、48箇所の身体のあちこち、戦国を生きる親の天下取りへの欲望の犠牲になる我が子。48の妖怪に奪われた自らの生身を取り返す物語。手塚作品の中で「どろろ」は、テレビアニメにもなりました。その過激なシーンは、今では、障害者に対する差別などの問題も孕んでいて、おそらく、ある部分NGだったり、ある部分は制限があったりするのでしょうが、私たちは、この原作を見る限り、けっして障害者が不快を感じることよりも、その障害を克服する旅、そして、そのたびの途中での余りにもどろどろした人間の感情の深さに、目を被いたいがための封印策を感じざるを得ません。
 そのあたりをちょっと踏み込まさせていただきますれば、果たして、何故に今「どろろ」なんでしょうか。よく、親がなくても子は育つ、なあんて言います。でも、百鬼丸の、自らの生身48箇所を取り戻す旅は、親がいても決してうまく育たない裏返しではないでしょうか。そうした子供たちが今現実にいることの親や社会の先輩たちへの警告なんではないでしょうか。親である醍醐景光とその妻に大切に育てられた弟、多宝丸が登場します。多い宝という名前です。それに対し、兄は百の鬼です。でも、私たちは、自分の子どもがどちらであるべきか、考えさせられます。どんなにたくさんの宝を与えたとしても、与えられる環境に疑問を感じない限り、それが絶対となります。それが絶対と思えば、そうでない環境はわからないし、わかったとしても、自分のものではない、と言いきります。もうそこで、自分の存在を問うことは停止してしまうでしょう。
 百鬼丸は欠如の代名詞、故に欠如しているものを自ら取り戻そうとします。簡単に言えば、アイデンティティ探しの旅です。元来、教育を受ける時代とは、自分のアイデンティテイは、育てられる者から学びます。学問であれば教師であります。しかし、もっと根底には親がいるはずです。大きく見れば社会でしょう。しかし、社会という大きな側面も親という個の側面も、教師まかせの教師のせいにされたら、教育現場の負担は大変なことになります。そういう狭間で、いじめや登校拒否がすべて教育現場のせいにされたら、ほりゃあ、先生方も逃げたくなりますよね。塾の教師みたいに割り切りたくなりますよね。
 子どもって、実は親が手取り足取り教えなくても、親の背中を見て育つ、そういうこともあるんです。身近な人間をまずお手本にする、鏡にする。そう思えば、いたって単純な話です。一生懸命生きている親を見ている子どもは、一生懸命に生きることを学びます。いくら優等生に育っても、それがいい子とは限りません。ずるがしこい子にもなります。最高学部へ行っても人の心が理解できない人間はわんさかいます。それを理解させてくれるための主人公として、メインの百鬼丸よりも表題にになっている「どろろ」という少年(少女)がいるのです。だから、この作品の「どろろ」は、テレビアニメで途中改題した「どろろと百鬼丸」じゃなくても「どろろ」でいいのです。手塚氏は、農民でありながら泥棒一家になり盗賊の首領になった親の子ども「どろろ」をプロットの本筋である「百鬼丸」ストーリー以上に重要と考えたのはそこではないでしょうか。
 48の魔物と戦い自らを取り戻す旅を続ける百鬼丸。その旅の行く末は、おそらく、全てを取り戻した時、ごくごく普通の人間になってしまいましょう。しかし、その時、百鬼丸が人生の最大の幸せは、どろろとともに生きたということであり、その後、何を目的に生きればいいと考えた時、再び、どろろとの再会を一番の重要課題とするのではないでしょうか。物語は、旅をし続けるという結末で幕を閉じているために、手塚氏の着地点は想像するしかないでしょうけど。
 でもね、私は、どろろがいい女になって、全ての妖怪に奪われた生身を取り戻した百鬼丸と再会して、ごくごく普通の農民として最高の伴侶である人生を全うする、そんなちょっとドラマ的にはつまんないけど、そんな後日談を描きたくって仕方がありません。人間なんて、所詮みんな、「ほげほげたらたらほげたらだ」もんね。