手塚治虫「奇子」 | 空想俳人日記

手塚治虫「奇子」

奇妙なる 心の裏の 社会現象 






 あの「どろろ」が実写映画で公開されると言うじゃないですか。とても危ない物語。発表当時、そしてテレビアニメになった時代からすれば、技術的には何でも可能になった時代とはいえ、逆にむしろ表現や思想の自由においては少々不自由な時代になりつつある今、あの頃の骨太さがどれだけ再現されるのでしょうか。

 そんな、今「どろろ」の実写版を心待ちにするとともに、そういうやばい作品という点では、この「奇子」は、やばくとも、できれば是非映画化してほしい作品ですね。

 戦前から戦後へ、そして戦後の高度成長時代へと移り変わる歴史の裏側で起きた日本のドラマと、その中で旧態依然とした体質と新しい体制の狭間で軋轢を受けた民衆の一側面を、まるで合わせ鏡のような歴史の証人として描ききったこの作品の重量感は、手塚作品の中でも一際光るものでしょう。私たちは、手塚氏を神様だから何でもできると片付けるのでなく、科学の子として描いた鉄腕アトムの生みの親と同じ作者であることに、もっと驚きを表明すべきではないでしょうか。

 話は物語から逸れます。第二次世界大戦敗戦後の連合軍による占領中の1949年(昭和24年)7月5日、時の日本国有鉄道(国鉄)初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪、15時間後の7月6日午前零時過ぎに常磐線・北千住駅―綾瀬駅間で轢死体となって発見されました。下山事件(しもやまじけん)と言います。事件の真相が不明のまま多くの憶測を呼び、「戦後史最大の謎」と呼ばれました。また、同事件から立て続けに発生した三鷹事件、松川事件と合わせて国鉄の戦後三大ミステリーとも呼ばれています。

 この作品では、霜川事件というのが起きています。あきらかに、この国鉄の事件のインスピレーション。そして、さらに「淀山事件は霜川事件のためのテストであった」と、作品の中の登場人物に言わせるように、そのテストに巻き込まれたのが天外一族なのですね。戦前、地主と小作の関係が、戦後崩されます。その中で、この一族(家族)の長、天外作右衛門は、戦後もかつての傲慢で放蕩な自分を生き長らえさせようとします。

 さて、彼の子どもたち。長男の市郎。日和見主義、自分の妻を父に譲るのを条件に天外家の実権を継承しようとします。次男の仁朗、霜川事件のテストである淀山事件の実行、そして逃亡。逃亡中に偶然知り合った男と共に朝鮮戦争の特需で祐天寺富夫(ゆうてんじとみお)と名を変え、彼と共に暴力団「桜辰会」を設立し、それを政界に影響力を及ぼすまでに成長させます。三男の天外伺郎。小さい頃から、天外家の中では一番賢いのですが、奇子と近親相姦を交わしちゃいます。長女の志子、父に共産党のかかわりを疑われて勘当されたために唯一一族を客観視できるのですが、淀山事件でテストかどうか分かりませんけど、被害にあったのは彼の恋人なんです。市郎の嫁すえ、奇子とは血縁的には母親ですが戸籍的には義理の姉となっています。後に舅の作右衛門の遺産金を引き継ぎますが夫の市郎によって殺害されます。

 そして、天外奇子。表向きは天外家の次女。実際は作右衛門が長男の嫁であるすえに産ませた私生児。幼少時代に仁朗の罪を目撃したために土蔵の地下室で幽閉され、23年間の時を過ごします。この23年間の時の流れが、この作品の軸となっています。普通の23年間ではないのです。外界と閉ざされた、ありえない成長過程の23年間。でも、ありえない? 果たして、ここに見られる奇子、そして天外家は特異な一家なんでしょうか。

 奇子という一人の女の子の出生、そして、育まれるべき環境。その背景の日本の家族制度と日本の社会変遷。そうした中で、私たちは、そうじた時代背景や歴史観、社会観を考えざるを得ません。

 例えば、さらに時代は変わり、この天外家は崩壊するしかない時代を迎えます。いわゆる核家族という時代ですが、その核家族の誕生に対し、かつての大家族の方がよかった、そういう概念もあります。核家族は、実は、日本の戦後の中で、押し付けられたのではなく、アメリカをお手本にし経済復興を成し遂げる過程で必要とされた新たな家族形態でも在ったことを忘れてはなりません。故に、単に懐古趣味で大家族は良かったというのは、ここに見せ付けられる天外家を肯定することにもつながる、つまり、核家族は日本がとらざるを得なかった進化形でもあったことが分かるでしょう。

 しかし、歴史観を受け止めることができれば、当り前のことですが当時を肯定すべきことと否定すべきことと同様、核家族化の先にもたらしたもののメリットとデメリットを学ぶことはできると思います。私たちは、どんなに大きな社会や経済や政治の流れから無頓着であろうとしても、逃れられない。むしろ無頓着であろうとすることの方が、そうした流れに肯定している形になってしまうことに気がつかされます。

 ところで、実は今、奇子に似た子供たちがあちらこちらで育っていると言うじゃないですか。この作品が書かれた時代からすれば、まさか、今は21世紀でしょ、時代も環境も違うじゃん、ですよね。でも、どうやら、似て非なる親たちがいるみたいなんです。逆か、非ずして似た親たちがいる? 小学校には、箸の持ち方もご飯の食べ方も知らない子どもたち。まるで障害者のように、まともにコミュニケーションができない子どもたち。それって、この作品で、子どもを蔵に閉じ込めることと同じような行為をしている親がいるということなのでしょうか。ひょっとして、時代は違えど、天外家の作右衛門や市郎と似た親たちが増えていることなんでしょうか。

 それは、逆に、そういう親たちが毎日を生きようとしている今という時代を改めて見直さねばならない時だ、という警告なのかもしれませんね。