イグジステンズ | 空想俳人日記

イグジステンズ

存在の 証明を証明する 存在なり 



 たぶん、マーク・フォスターの「ステイ」を観たからだ。この映画のコメントを今さらになって書きたくなったのは。ということは、この映画の映像を思い出したというわけだ。
 ゲーム感覚のリアル感が進めばこうなるだろう、みたいな見方をもともとしていないので、この映画も、現実とは何? 生きることって何? そんな思いが重い(?)。だいたい、クローネンバーグさんだって、そういうゲーム進化論がしたくって作っているわけじゃないよねえ。あおの「クラッシュ」みたいな俗悪(と言う人がいる、私はむしろ高貴にも思えたけど)映画も平気で作る人なんだから。
 このリアルなゲームそのものが、実はわれわれの現実世界かも、という裏返しは、まず明らかやねえ。このタイトル、スペルでは、EXISTENZだけど、existence(実在, 実存; 生存, 生活; 万物; 実体)を当然想起させる。
 例えば、ゲーム、人を殺してもリセットすれば蘇る。そんなゲーム感覚で人生をリセットできると思ったら大間違いだぞ、リセットできないんだぞ、殺した人は蘇らないんだぞ、人生はやり直せないんだぞ、そんな叫びが聞こえる。そういう現実を分かっていない若者が多い、などと親父たちは言う。本当に分かっていないのだろうか。
 そうじゃなかろうて。例えリセットできなかろうが人生はゲームだ。そう、ゲームと同じだと言う人もいる。じゃあ、人生ゲームも、その練習をリセットできるゲームで繰り返してもよいのでは、となるだろう。
 いや、ゲームには生身の人間がいない。自分と同じように、自ら考え行動する生身の人間が相手なのだから、ゲームのようには行かない、とも。
 そりゃ確かに。でも、自分と同じように自ら考え行動する相手が、本当に自分と同じ生身なのだろうか。いや、自分も生身じゃないかもしれない。
 おいおい、何を言い出すんだ。ただ、ああ言えば、こう言う、だけじゃないか。テーゼに対し、アンチテーゼがぶつけたい理由なき反抗でしかないな。
 テーゼに対しアンチテーゼだとすれば、常識論者がいかに真実などでなく、常識という因習を理論化して生きているかが分かる。
 おいおい、この文章、一人の文章なのに、二人いないか。二人が言い合っていないか。いや、一人の人間だ。まあ、いいか。
 とにかく、そうした常識が破壊された先に何が見えるか、何を見るか、そういう見方の出来る人にきわめて効能を発揮する映画なのである、この映画は。
 ゲームが終わってもゲームは終わっていない。ゲームが終わっていない癖して人生は終わっているかもしれない。その終わってしまった人生の中で描かれた一人の空想の人物、それが今生きている、あなたや私かもしれない。