ダ・ヴィンチ・コード | 空想俳人日記

ダ・ヴィンチ・コード

神の子を 信じる者こそ 使われる 



 平塚雷鳥は、こう言ったとさ、「原始女性は太陽であった。今、女性は月である。 他によって生き、他の光によって輝き、病人のような蒼白い顔の月である」と。この太陽は、日本神話の主神の太陽、天照大神(アマテラスオオミカミ)を言います。
 日本神話のみならず、土地土地では山や海に様々な神が宿る八百万の神の日本、そして後に輸入され政治と手を結んで勢力をつけた仏教。とはいえ、神も仏も信じない人々もたくさんいる、そんな日本。例え神が死のうが、神が人間であろうが、私たちは、自らの存在意義を覆され憤りを感じることは少ないでしょう。
 平塚雷鳥とて、日本神話の根っからの信者と言うわけでもないでしょう。いわゆる男性社会の中で女性の地位を復権させるために、「原始女性は太陽であった」をキャッチフレーズというかプロパガンダに使ったんでしょう。だから、もしイエス・キリストが唯の人の子であり、女性と婚姻もしており、子孫もいる、そんな仮説に対し、それもあり得るかもしれない、そう受け入れられましょう。そこは西欧の人々全てとは言えないでしょうが、明らかに大きな差異はありましょう。自分の信仰心を根底からひっくり返されかねないわけでもありましょうし。
 そうしたことから、キリスト教の歴史においては、西欧ではごく当り前の知識であることが、私たち日本人には学問として学ばなければ知らない知識でもあるわけで、書物など噛み砕いて説明してあったり読み手が何度もページを返すことで理解できるものが、映画のようなどんどん時間と共に流れていくメディアの場合、よく分からないまま置いてきぼりを食らう、そういうことは起きてしようがないことですね。
 しかも、それに輪を掛けてレオナルド・ダ・ヴィンチにアイザック・ニュートン。ルネッサンスや万有引力、天動説から地動説、そうした西欧文化においては歴史的重要なポイント(本来、世界的においてもでしょうが)。それを私たち日本人はどれだけ重要なものとして理解しているでしょうか。幕末から明治維新ならよく知ってんぞ、そんな人も多かりましょう。
 この「ダ・ヴィンチ・コード」は、こうした西欧と我が国との文化の相違というか、そんな要素を孕んだ映画でありながらも、相変わらずの観客動員確保のためのプロモーション・インパクトにより、老若男女が劇場へ足を運んでしまいます。意見が真っ二つに分かれるどころではなく、様々な感想が飛び交います。たくさんの感想が出ること自体はいいことでしょう。でも、こういうと興行側に失礼かもしれませんが、たまたま原作でヒットしているから我が国でも全国津々浦々の一斉拡大ロードショーなんでしょうが、映画のテーマからすれば、日本ではミニシアター系の作品なんではないでしょうか。
 西欧では、当然あまねく人の関心、十分に手ごたえを得られる内容なのだから、トム・ハンクスやオドレイ・トトゥにジャン・レノという素晴らしい顔合わせが実現したのでしょう。


 などと、ちと客観的に進めようコメントを、そう思ったけど、以上でおしまい。ここから私の主観とネタもバレバレよん。
 実は、この映画、予告で観ようと思い、封切られるや否や行くのやめとこうと思い、でも、なんか吹っ切れず、ああそうかオドレイ・トトゥが出てるし、なんせ、わしの好きなレオナルド・ダ・ヴィンチがモチーフじゃんね、やっぱ見ておくべきかいな、そう思ったわけで、劇場へ足を運んだ。
 オドレイ、ううむ、オドレイたなあ、ひょっとかしてダイエットされた? なんか頬がこけて見えたなあ。「アメリ」や「ロング・エンゲージメント」の印象が強いから。癖のない女性になっちまったなあ、つまんないなあ。でも、彼女がイエスの末裔だと思うと、その設定ちょっと小気味いい。ふんでも、やっぱり役柄、おとなしいなあ、車をバックで自由自在に走り回る運転シーン以外は。それにおいてもポーカーフェイス。舌でも出してよ。
 例えば、彼女がイエスの如く十字架に貼り付けになりながら「オウ・マイ・ガッド」って叫ぶ幻想シーンでもあると、ちょっと違うんだろうけど。そうすると、ジャン・レノが出てきて「ボンジュール、マドモアゼール。サバ?」なんちゃって挨拶をして、ただ通り過ぎていく。そうすると、遠くから機関車の如き勢いで走ってくるトム・ハンクス、オドレイ貼り付けの十字架を根こそぎ抜いて、十字架ごと担いで駆け抜けて去っていく。なあんてね、本作とは全然ノリが違うか。主役級の三人に個性が感じられないかわりに、シラス役のポール・ベタニーとリー・ティービング役のイアン・マッケランが抜きん出てたわあ。
 キャスティングはこのくらいにして、レオナルド(フルネームで言わない限り、ダ・ヴィンチとだけ呼ぶのはちょっと変なので、何故かというと、ヴィンチ村のレオナルドくんだから、レオナルドって言うね)関連で言えば、いきなり登場の「ウィトルウィウス的人体図」。マルクス・ウィトルウィウス・ポリオ、古代ローマの建築家。レオナルドは、さまざまな分野で自然の作用を研究したが、その中の一考察。この人体図は医学的なものでなく、幾何学的建築学的構造を研究する一環のひとつ。続いて、「モナ・リザ」や私の好きな「岩窟の聖母」が出てくるが、これは謎解きのプロセスに使われるだけ。ユニークなのは、「最後の晩餐」。ここでイエスの秘密が明かされていく。
 これはおもしろい。とてもおもしろい。クリプテックスのキーワードの、ニュートンと言えばリンゴよりも面白い。この絵画の解釈に、いやはや納得してしまった。聖杯そのものを宗教的に重要視するか否かは別にして、12人の使途のうち、絵に向かって左隣にいる、なぜかわざとらしく少し距離をおいている、大ヤコブの弟である聖ヨハネ。これを女性だとする。マグラダのマリアだと言う。ありえる。絵画そのものを良く見ると、思いを寄せながらも人前で距離をおく女性に見える。そんな彼女をイエスは愛していた。例え娼婦という地位であろうが、彼は愛していたのだ。
 見よ、日本においても戦後、天皇は人間宣言なされた。そういうことからすれば、二千年の歴史を台無しにしてイエスを人間宣言するこの映画を西欧人がブーイングしようが日本人には別に何の不思議もないのだ。
 だいたいからして、世の中のヒーローはみんな神話化される。イエスも二千年前、ヒーローとしていくつもの奇跡を起こした空想科学小説の主人公にまつりあげられたのだ。それが新約聖書なり。イエス自身が書いたわけでもないし。それを後々の人間が、仏教を政治の道具にしたどこかの国と同じように政治の道具にしたのだよ。
 しかも、あちらでも彼を神の使者にしながら男性社会を築くべく、逆に奇跡を起こす女性たちをみんな魔女にしてしまった。サマンサも含め奥様たちはみんな魔女なのだよ。何故なら子孫を根絶したいのだわね。そうした中、ひそかにイエスとマグラダのマリアの間に生まれた子を守り、さらにその子孫を守る連中がいたのも不思議はなかろう。となれば、今回のドラマは、素晴らしい仮説ですがね。
 ひょっとかすると、イエスが神の子という解釈であり続ける限り、マグラダのマリア以降、二千年の歴史は女性迫害の歴史かもしれませぬぞ。いや、それ以前の、アダムとイヴの物語から。
 こうしたことを描かんとしているようにも見えるこの作品は、実に大きな野望を孕んだ作品かもしれんよねえ。
 ロン・ハワードさん、今度は、「原始イエスは人間だった」という出だしによるイエス誕生の時代から始まるドラマを映画化されなされよ。うん、おもしろそう。そして、時は流れ、ルネッサンス時代、レオナルド・ダ・ヴィンチは一人の愛する少年のために多くの仕事をした。そのサライという名の少年は、実はイエスの末裔であった。なんてね。その名(表題名)も「イエスはとっくに死ンデレラマン」。
 レオナルドについては、本ブログの拙筆~長尾重武「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ」http://ameblo.jp/shisyun/entry-10012156024.html ~を参照あれ。


 イエスは何故に神あるいは神の子でなければいけないのでしょうか。何故に人間ではいけないのでしょうか。
 神を信じ、神の子に自らもならんがための行動をする、それが導師に導かれて行動する自虐的なシラスかもしれません。私たちは一途に神を信じ行動する男として、このシラスに信仰心の厚さを最も感じざるを得ないでしょう。
 もし、このシラスが、イエスが人間であり、マグラダのマリアとの間の子どもの末裔が現代にいることを知ったら。そして、それがオドレイ演じるソフィであることを知ったら、どうなっていたでしょう。それこそ「オウ・マイ・ガッド」と言いながらも、こんな殺人命令で手を汚すこともなかったでしょう。
 信じるものこそ救われると言います。しかし、アレから二千年、信じさせようとする者たちの人間的な策略の方が多いのではないでしょうか。信じさせようとする戦略家の前に、信じるものたちが被害者となる、そんな時代にクレームを唱えた、そういう作品に思えてなりません。この映画でブーイングをした人たちは、信じさせようとする策略家が信じる者たちをコントロールしている真実を突きつけられたからに他なりません。