色川武大「百」 | 空想俳人日記

色川武大「百」

百代の 過客の宿の 宴かな 



 私は「麻雀放浪記」も阿佐田哲也も知らない。私が彼を知ったのは、色川武大の名による「狂人日記」だ。スゴイ! そう思った。そして、それ以上何も言えなかった、語れなかった。いまだ、この作品に関して感想や論評をしなさいと言われても出来ぬ。しようとも思わないし、する気もない。
 できるとすれば、ちょん髷小説というか時代小説というか、岩見重太郎くん、あるいは名無しの恋兵衛の連作話。こいつは面白い、誰か映画化してくれぬか。それから「怪しい来客簿」に、食い物の話の「喰いたい放題」あたりかな。
 だけど、しない。ここでは読んだばかりの「百」について語るとしよう。「百」とは百歳の「百」。父親の話だ。この「百」を収めた短編集は、みんな父やら母やら弟やらが出てくる。私小説なんだろうね。猿や猫が出てくる話も面白いが、この95歳になる父親を中心にした作品は、どことなく私小説じゃ、では済まぬ、何故か彼や彼の家族のお話に留まらない感銘を受ける。
 百のひとつ手前、つまり「一」引いた「白」が白寿。このお祝いまであと四つ。すると、父親は99では駄目みたいなことを言う。百まで生きれば、お上(役所)から長寿を祝って百万円が貰えるそうな。それを弟夫婦の娘、つまり孫にプレゼントするそうなり。百まで生きてやっとしてやれる贈り物、自らの人生はなんだろうと憂いたりもする。そんな父親の、妻や作者も含めた子供たちと生きてきた人生がなんともやるせない。彼がやるせないんじゃなく、彼を通して見える人間という生き物が。
 妻への甘えの裏返し的なる存在否定と凶暴さ。諍いのあげくは妻は怪我して入院。弟夫婦と三人での談話の最中を父親に見つかる。何も密談を交わしていたわけでもないものを、父親はあたかも、三人から審判が下されるとでも思った風。こっちへこい、と三人を呼び寄せておいて、何を言われるかと思えば、大ボケによる命令。これ幸いに、その命に従うように、その場からずらかる三人。この笑いも込み上げてくるペーソスに、人生の凝集を垣間見させてもらった気がする。
 決してドラマチックでなく淡々と描く色川氏の筆致に、コンプレックスだらけの劣等生などと誰が思おう。
 私は阿佐田哲也を知らない。知ろうともしないし、知る気もない。何故ならば色川武大の魅力を感じながらも、ただ獏としているだけで、それを論理だっても言えないし、うまく感想も書けない。彼からすれば、いまだ人生の若造かもしれない自分がいつまでも人とは違う自分なんで思っているうちは駄目で、実は猿や猫とかわらぬ生き物であるかもしれないことに気がつくまでは、そんなにあれこれ欲張らないで、というか、「百」まで読んで、四作のうち、まだ一作読んでいないのに、何へったクソな文章書いてるんだよ、ほれ、最後の一作、読まねば読まねば。

「百」著者:色川武大 出版社:新潮社